fc2ブログ

ゆっくり歩こう

司馬「関ヶ原」を読んで<4>

司馬「関ヶ原」を読んで<4>
== 柿をめぐって ==

ご訪問ありがとうございます。

司馬作品「関ヶ原」は石田三成が主人公で、それに対抗するのが悪役の徳川家康でして、
両者の人物比較に読みごたえあります。
ちょっと面白い対比しうる二節がありました。

★家康の場合
三成が大垣城にいるとき、家康は江戸から戦場となる尾張方面へ移動中だった。途中、駕籠に乗っていた家康にひとりの僧がやってきて大きな柿を献上した。それに対して家康は、
「はや、大垣(柿)が手に入った」
と珍しく冗談を言い、駕籠のなかからその大柿をころがし、
「それ、大垣ぞ。奪いとれ」
と駕籠わきの小姓たちにたわむれた。

★三成の場合
捕えられた三成は刑場の六条河原へ檻に入れられて護送されていた。途中、のどがかわいて
「湯はないか」
と、護送役の獄吏に声をかけたが湯はなかった。
「しかし、干柿ならある。かわりにこれを食されよ」と三成のいる檻の中に投げ入れた。
この無礼に三成は沈黙し、やがて、
「柿は、痰の毒だ」
と、ひとことするどくいった。そのとおり柿は古来痰の毒とされている。
しかしいまから刑場に向かう人間が、痰の養生をしても意味がない。そういって、獄吏は大声であざわらった。
「下郎っ」
と、三成はいった。
「大丈夫たる者が、義のため老族を討とうとした。しかし事志とちがい、檻の中にあるが一世の事は小智ではわからぬ。いまのいま、どのような事態がおこるか、天のみが知るであろう。さればこそ眼前にひかえているとはいえ、生を養い、毒を厭うのである」
と、一語一語、ことさらにさわやかにして言った。これには獄吏も沈黙し、群集も一時息をひそめるように押しだまった。
このあと、六条河原で斬られた。



結局、家康も三成も柿を食べませんでした。
同じ移動中でも家康は駕籠で天下取りの途上、三成は檻で死の直前という状況があまりに違いすぎるので単純な比較はできないのですが、それでも「差し入れられた柿を食べなかった」という基本的には同じ行動ながらほとんど正反対の反応を示したというのは興味深く、両者の性格が如実に表れた出来事でした。

PageTop

司馬「関ヶ原」を読んで<3>

司馬「関ヶ原」を読んで<3>
== 石田三成と江藤新平 ③ ==

ご訪問ありがとうございます。

三成と江藤について作者による性格描写を「関ヶ原」と「歳月」から抜粋します。

(「関ヶ原」から抜粋)
治部少輔三成は、自己の信念のもっとも強烈な信者といっていい。
―― 自分以外に神をもたぬ。
という点では、信長も秀吉もそうであったが、三成はなおその極端なほうであろう。

(「歳月」から抜粋)
江藤はかつて、
―― 馬鹿ほどきらいなものはない。
と言い、りくつの通らぬ人間をみると、これは人ではないとおもってしまう、と告白しているが、江藤はそうであろう。江藤は、世の中をうごかすものは少数の賢者より多数の、かれのいう馬鹿であるという政治の原理を理解しにくくできており、さらにはかれのいう、馬鹿を理解することはできないということも、江藤はそのあたりだけが空白になっているほどに理解する能力をもっていなかった。されにはかれの論理は法律的論理であり、これについてのかれの年少のころからの友人であり最後には政敵に近い存在になった大隈重信は、
「江藤には非常の才略がある。とくに非常の雄弁をもち、非常の討論家であった」
と、のちかれの類のない能力をたたえたが、そういったあとつねに声を一段ひくめて、「しかし江藤は群集心理というものを知らなかった。ひょっとすると物事の筋の正しさを追うあまり、人間というものの何たるかを見忘れるところがあったかもしれない」といった。



三成も江藤も非常な秀才で、新しい世の中を秩序だったものにすることに取り組んで実績をあげ、そして正しい理にかなった規範で戦いに巻き込まれていきました。そして、巨大だが横暴で不正な徳川勢や長州勢に敗れてしまったのです。理不尽です。
司馬遼太郎は清廉で潔い姿勢に惹かれて三成や江藤を主人公にした小説を書き上げたのでしょうが、世の中はいかに優秀でも自分の能力ときれいごとの意志だけでは成功しないという不条理さも表したかったのでしょう。
家康や大久保が戦いに勝ったのは時代の大きな流れに乗っていたし、その人格に長者の風格と徳のようなものを持っていたという理由がありそうで、敗者の三成と江藤は秀才であるがゆえに全て自分で取り仕切ってしまい周りの人びととの協調性に欠けていたように感じます。



今回は「関ヶ原」と「歳月」を読んでの感想でしたが、同じ司馬作品で「項羽と劉邦」における題名通りの項羽と劉邦や、「国盗り物語」の後半における明智光秀と織田信長や、「義経」における義経と頼朝もとても似た対比構成に感じます。
大変に優秀なのだけれども何かもう一つ器量が狭い人物がライバルに負けてしまうことになってます。
これらの作品では主役級の二人の人物比較が詳細に記されていて、なぜ一方が勝ち他方が負けたのかを考えさせられます。
これだけ同じような構成の小説を書き上げている司馬遼太郎は、世の中では優秀な正しき者が必ずしも報われないというよほど強い思いがあったのかもしれません。もしかしたら、司馬自身が報われていない、あるいは自分の思想が世間に伝わらないというような思いがあったのでしょうか。

PageTop

司馬「関ヶ原」を読んで<2>

司馬「関ヶ原」を読んで<2>
== 石田三成と江藤新平 ② ==

ご訪問ありがとうございます。

前回、「関ヶ原」と「歳月」の敵役同士の大久保が家康を範としていた、という話をしました。
少し話がずれますが、大久保と家康についてはもうひとつ共通点があると思います。それは恵まれた体格によって見た目の風格があったということです。大久保は背が高く家康は恰幅がよく、見ただけで相手に威圧を感じさせる肉体的利点をもっていました。ある人によれば、明治維新をなしとげた幼馴染みの西郷と大久保ですが、西郷が痩せていたり(島流しにあった時はときは一時的に痩せましたが)大久保の背が低かったならあのような偉大な仕事はなしえなかっただろう、ということです。
このような例は他にもいっぱいありますね。オバマが小男だったらたぶん大統領には選ばれなかったでしょう。政治のトップリーダーで極端に小さい人というのはあまり見かけません。体が小さく容姿が醜悪だった秀吉などは例外なのでしょう。
話がずれました。



「関ヶ原」の主人公石田三成は恰幅のよい家康によって滅ぼされるのですが、その三成はどのような体型だったのでしょうか。
明治時代になって三成の墓所の発掘が行われ、その遺骨の調査がなされました。それによると、優さ男の骨格で、生前には体質虚弱で神経質ではなかったかと思われるそうです。さらに、骨格を見ただけでは男女いずれであるか、性の決定が少し困難なほどだったといいます。
三成は体格的にも家康に負けていたようで、おそらく威厳のある風貌ではなかったのでしょう。

(続く)

PageTop

司馬「関ヶ原」を読んで<1>

司馬「関ヶ原」を読んで<1>
== 石田三成と江藤新平 ① ==


ご訪問ありがとうございます。
久しぶりに日本史です。司馬遼太郎の「関ヶ原」と「歳月」の読後感想です。両方とも2回目ですが、読書は2回目以降には前回に気づかなかった点なども見えてきてまた面白いですね。何回かに分けて書いていきますが、初回に気づかず今回分かった事がほとんどです。
司馬作品は本人も認めているように日本史の教科書ではなくてあくまでも「小説」なので、必ずしも史実とは言い切れない部分もあるようで注意も必要ですが、小説だけにメッセージ性はあります。



今回読んだ「関ヶ原」は、題名通り1600年に日本史の大転換点となった西軍(豊臣方)と東軍(徳川方)の大戦争を題材にしたもので、主人公で事実上の豊臣方総大将の石田三成と敵総大将で戦国時代巨頭の徳川家康との攻防を描いたものです。
戦国時代が秀吉によって収束され、時代が少し安定しかけたときに日本を二分する大きな戦いが発生しました。ご存知のようにこの戦いでは西軍はわずか1日で東軍に敗れて石田三成は斬首・梟首され、豊臣家は滅亡へとむかうこととなりました。
一方の「歳月」ですが、こちらは明治維新後の話で、主人公は佐賀藩出身で司法郷(司法大臣)として活躍した江藤新平です。江藤は、長州藩出身で内務卿(外務、軍事、司法以外のほとんどの管轄大臣?)で明治維新巨頭の大久保利通と対立し、佐賀の乱で大久保に滅ぼされ斬首・梟首されました。幕末の戊辰戦争も終わり、新政府による明治維新が進行し始めた時に旧士族による反乱がいくつか発生しましたが、佐賀の乱はそのさきがけとなりました。

「ちょっと似ている?」と思われたでしょうか。そう、久しぶりにこの二書をたまたま続けて読んでみてその類似性に気づいてブログでご紹介してみようと思った次第です。
石田三成は秀吉子飼いで出世した優秀な実務型文官で、秀吉に恩を感じその没後も豊臣家による体制を守るために純粋な忠義の動機から横暴で陰湿な手段で天下を盗もうとする家康に対抗することになりました。
小説の構成上、主人公である三成は正義であり敵方の家康は悪役となっていますが、実際上も概ねそのような構図であったのでしょう。ただ、ハリウッド映画とは異なり単純に正義が勝つわけではなく、この場合は家康が勝利しその後の江戸時代徳川体制への大きな第一歩となったのです。
三成は頭脳明晰で、戦国時代に荒廃してしまった日本において新たに豊臣体制を作り上げる複雑な実務を見事にこなしていました。また、そのような事務的能力だけではなく、朝鮮出兵では秀吉に代わって大軍の渡海移動、補給計画などを完璧にこなしていて、軍務にもたけている面がありました。もっとも、これは総大将としての役ではなくて、戦略でも戦術でもなくて軍務というべきものでした。また、この朝鮮出兵による経験では、戦さというものを日本対朝鮮という大きすぎる視点でとらえてしまい、その経験から関ヶ原でも日本を二分する大きすぎる戦いに発展させ、しかも徳川方を東北の上杉勢とともに本州を広大に使って挟み撃ちにするという無謀な巨大作戦に突き進ませてしまった気もします。戦史を見ていると大きすぎる作戦はうまくいかないようです。

もう一方の「歳月」における江藤新平も三成にかなり似ていると思います。非常に優秀で明治の新しい世の中を法治国家として建国していく気概があって精力的に法整備を進めていました。また、維新の立役者とはいえ薩長(特に長州藩の井上馨など)の横暴は腹に据えかねていて、司法郷の立場から法律に基づいて取り締まろうとしていました。
それが、反長州という姿勢や司法省と内務省における警察管轄の奪い合いなどから江藤と大久保が対立することになってしました。江藤の方は大久保を敵視していたわけではないようですが、反対に大久保は江藤を許せなくなっていたのでしょう。江藤が佐賀藩士にかつがれて佐賀の乱を起こすと、大久保は自ら陣頭指揮にあたってきわめて迅速にこれを平定したのでした。
興味深いのは、大久保は家康を尊敬していて範としていたことです。反対に江藤の方は側近との会話で「封筒というものを発明したのは誰か知っているか?石田三成なのさ。」と語っていることで、おそらく三成に好感を持っていたのでしょう。
くしくも、三成に興味を持っていた江藤は、家康から学んでいた大久保によって葬られたのでした。

「関ヶ原」、「歳月」両作品中では三成の愛人の初芽と江藤の愛人の小録の扱いも似ているように思いました。

(続く)

PageTop

松平秀康と保科正之の不思議な共通点<2>

松平秀康と保科正之の不思議な共通点<2>
ご訪問ありがとうございます。

前回は松平秀康と保科正之について簡単にご紹介いたしました。この二人がいかに似た人生を歩んだのか理解していただけたことと思います。あまりに似ていて不思議と言うより気持ち悪いくらいです。本人達だけではなくて家庭環境まで似通っているのですから。亡くなった年齢とかはだいぶ違うし、相違点ももちろんありますが類似点が多すぎます。
ある歴史家は保科正之と水戸光圀が似ていると指摘していましたが、光圀よりも秀康の方がの方がずっと似ていると思います。
正之は秀康が亡くなった4年後に生まれてますが、正之は秀康の孫の越前藩第四代藩主の松平光通とは幕府を補佐する上で協力関係にありました。不思議な縁です。
家光が48歳で他界して11歳の家綱が将軍職を後継することになったとき、諸大名は江戸城に集められました。そこで、正之と光通は一緒に進み出て諸将に向かってこう言い放ったといわれます。
「家綱様はまだ幼いから、天下を窺う者がいれば今が好機であるぞ。野心ある者は申し出よ。我々が踏み潰してくれようぞ」
と言って、諸大名を平伏させたそうです。何ともドラマチックなワンシーンですね。明治維新のときもそうでしたが、越前藩と会津藩はこのころから幕府を強力にバックアップしていたのです。

さて、秀康と正之については前回に簡単にご紹介させてもらいましたが、より分かりやすくするため共通点を箇条書きに抜き出してみます。

1.徳川将軍家の次男又は三男
2.母親(お静、お万)は女中であり、正室ではなかった
3.本来義母となるべき正室(築山御前、お江)は気が強く、父(家康、秀忠)は恐妻家になっていた
4.その正室の勘気にふれないように秀康も正之も城外で生まれ育てられた
5.生まれた後も実父にはなかなか会うことができず、または生涯会えなかった
6.家督を継ぐ可能性のあった正室の子で有能な異母兄(信康、忠長)が切腹させられている
7.関東周辺の国(結城、高遠)に養子に出されている
8.拠点が三度変えられている(秀康は大阪→結城→越前、正之は高遠→出羽→会津)
9.松平姓を許されても養子家の姓(結城、保科)を長く名のっていた
10.北関東(結城)または南東北(会津)の要衝の地の藩主を経験し、有事(関ヶ原、天草の乱)には北方の牽制役をした
11.将軍家を陰でサポートして、人格者の呼び声がたかかった
12.代表的事業のひとつに城下に水をひく用水路(芝原用水、玉川上水)の開削がある
13.重篤な病気(梅毒、白内障)を患って、それにより亡くなりまたは失明した
14.御三家に次ぐ「第4の家格」または「制外の家」とされる特別な藩(越前、会津)の藩祖となった
15.藩祖となった藩は徳川親藩として幕末まで続き、明治維新ではともに協力して佐幕派の中心となり、藩主(春嶽、容保)は養子ながら幕府存続ために尽力し、新政府軍には負けたが名君と慕われた



この二人、名君とも言われながら現代において知名度は高くないようです。その理由としては、将軍になったわけではなくてあくまでも裏方的仕事に徹したからなのでしょう。
二番目の理由としては、秀康の越後藩も正之の会津藩も明治維新で新政府軍に負けて「賊軍」のレッテルを貼られてしまったことです。明治政府は長州閥と薩摩閥に支配され、敗者側の藩の人物は顧みられなくなってしまったようです。
さらに、保科正之についてはもう一つ理由があります。彼は自分の死期が近くなると、自らの仕事に関する資料等を全て焼却させてしまいました。自分は家光と家綱に仕える裏方である、という強い自覚から自分の仕事の証拠を抹消させたのです。謙虚です。これにより、正之の業績はほとんどが家光または家綱が行った仕事とみなされるようになりました。
家光は鎖国や参勤交代制度の完成、武家諸法度の改正などを断行して徳川幕府の基盤を整備した名君と言われていますが、実はこれらの業績は正之のものだったかもしれません。
家光は実弟の忠長は切腹させていますが、異母弟の正之は信頼し重用していました。これは正之の実直な性格のためだったのでしょう。

PageTop