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ゆっくり歩こう

日本神話雑感1;国譲り伝説について

神々の住む高天原は茨城県だった
今日書き留めようと思うトピックは太古の神話の話でして、古事記に記されている国譲りの伝説その他についてです。まず、興味をもっていただくため漠然と下の図を眺めてください。
下日本地図(猿田彦神社)
この地図はあとでもう一度登場させます。

先日に読んだ本で国譲りについて非常に大胆で面白い仮説があったので、私の意見も加えながら紹介したいと思います。
このブログを読んでくれている方は古事記を読んだことはあるでしょうか? 私の身の回りでは古事記を読んだという人は見当たらないですし、結果として古事記の詳しい内容までは知らないようです。普通はイザナギとイザナミの国つくり、アマテラス(天照大神)の岩隠れ、スサノオのヤマタノオロチ退治、因幡の白兎、ヤマトタケルくらいは知っているでしょうけど、国譲り伝説、天孫降臨、コノハナサクヤヒメとイワナガヒメ、山幸彦と海幸彦、ヤマトタケルの名前の由来、神功皇后の新羅征討などとなると知っている人はほとんどいないようです。古事記は日本人の原点だと思うし、実際に読んでみればとても面白いので是非一度手にとってみてもらいたいと思います。入門書や子供向けの薄いダイジェスト版またはマンガ版でも十分だと思います。
古事記研究家の竹田恒泰氏は、少し極端に「古事記を読んでいない日本人は日本人じゃない」とまで述べています。
「そんなこと言っても、実際の「日本史」ならともかく、神話なんてどうせ作り話なんだから読む価値はないヨ」、という合理的な人も多いかもしれません。しかしながら、最近の調査・研究では古事記の内容は必ずしもフィクションとは言い切れず、相当程度に史実に基づいているのではないかと見直されてきているようです。特に、哲学者で歴史家の梅原猛氏は、古事記をフィクションとして批判してきた従来の自説を完全撤回し、最近は古事記が史実に基づく重要な歴史書であると精力的な主張を展開されています。自説撤回は勇気がいることだったでしょうね。
なぜ、現代の我々は古事記に対する興味をなくしてしまったのでしょうか? それは戦後のGHQの政策として古事記を発禁図書にしていたことが大きく影響していると思います。「自らの神話を子供達に教えない民族は例外なく滅びる」という法則があるそうでして、今の日本の状況が心配です。

〇古事記の国譲り伝説と天孫降臨の基礎知識について
余談はこれくらいにして、まず話の前提としての古事記の国譲り伝説と天孫降臨について簡単に紹介します。すでにご存知の方はこの段落は読み飛ばしてください。
古事記では、この世は「天」の高天原と「地」の葦原中国があって、アマテラスなど天の天津神たちが高天原を治め、大国主神をトップとする地の国津神たちが葦原中国を治めていました。大国主神は因幡の白兎の伝説で瀕死のうさぎを助けた神です。
しかしながら、アマテラスなど天津神は、地の葦原中国も自分たち天津神が治めるべきであると考えるようになり、その交渉のために高天原から葦原中国に遣わされたのがタケミカヅチノカミでした。それ以前にも二柱の神が遣わされていたのですが両者とも大国主神に懐柔されてしまったので、三度目に遣わされる使者は武勇に優れたタケミカヅチノカミが選ばれたのでした。タケミカヅチノカミは出雲大社のすぐ西にある稲佐の浜に降り立ち浜に剣を逆さまに突き立ててその切っ先の上に胡坐をかいて、大国主神に葦原中国を差し出すように迫ります。大国主神は従前の使いの神のようにはタケミカヅチノカミを懐柔することはできないと悟ります。でも何とか口実を作って時間稼ぎをしたく、自分の息子の二柱の神に相談したいと申し出ますが、これらの息子たちも結局タケミカヅチノカミにはかなわず、息子の一方タケミナカタノカミ(健御名方神)は長野県の諏訪まで逃げ込みます。諏訪大社はタケミナカタノカミを祀っています。なぜか諏訪大社の公式HPには明記されていないみたいですが。
こうして大国主神は恭順することになりました。大国主神は、その代り隠居をするための神殿が欲しいと願い出てこれが許されて建造されたのが出雲大社です。ここまでが国譲り伝説です。
大国主神が国譲りに同意したことで、アマテラスは自らの孫(天孫)であるニニギノミコトを地上の支配のために遣わすことにしてアメノウズメという女神を含む数名の天津神を供につけて送り出したのでした。アメノウズメは岩戸の陰に隠れてしまったアマテラスを外におびきだすときにも活躍をした露出狂癖のあるちょっとエッチで陽気な女神です。
ニニギノミコトの一行が地上へ向けて進むと道が幾本にも分かれている八街(ヤチマタ)という分岐路に差し掛かると、そこにとても大きくて鼻が長い異形の国津神が仁王立ちしてこちらを凝視していました。不信と不安にかられたニニギノミコトはアメノウズメに彼が何者か問いただしてくるように指示します。
勇気あるアメノウズメの問いかけに対して、その国津神は自分はサルタビコ(猿田彦)といい天孫が中津国に降りてこられることを知って道案内をかってでてここまで迎えに来たのだと答えます。ニニギノミコトはサルタビコの案内によって先へ進みます。大柄なサルタビコは案内役兼護衛役だったのかもしれません。サルタビコは天狗のモデルになった神であるとも言われてます。
そしてニニギノミコトが地上に降り立ったのは九州の高千穂でした。これが天孫降臨です。ニニギノミコトはこの地を拠点に地上支配を進めていくことになったのです。
それからまたいくつもの物語が続き、ニニギノミコトのひ孫が初代神武天皇に即位するのです。

〇鹿島神宮周辺の地理
ここで鹿島神宮周辺の地理を確認しておきましょう。
鹿島神宮は鹿島アントラーズで有名な茨城県南部にある鹿島市(正式には平成7年に鹿嶋市に改称されてますが、ここでは「鹿島市」で統一表記します)の有名な神社です。その南隣で日本最大の利根川をはさんで銚子に面しているのが神栖市(平成17年に波崎町を併合してます)でして、北海道を除けば銚子の犬吠埼とともに日本で最も東端に位置しています。ある意味地の果てとも言えるし、季節にもよるようですが北海道東端よりも早くに朝日が昇る特殊な土地なのです。古代の人たちは世界中で太陽に最もちかい土地と考えていたかもしれません。
鹿島市の東側には長大な鹿島灘が広がり、西側には二つの巨大な湖、つまり北浦と霞ヶ浦がほぼ並行して横たわっており、鹿島市は海と湖に挟まれた意外に南北に細長い地形です。
利根川を渡った対岸の千葉県香取市には香取神宮があり、さらに銚子からJR総武本線に沿って千葉方面へ向かうと途中に猿田町及び八街市があります。以下の稿を読む前にグーグルマップか何かで鹿島市周辺の地図をちょっとでも眺めてもらえると話のイメージがつかみやすいのではないかと思います。

〇ここからが本題
さて、ここからが本題です。先日読んだ「鹿島神宮」という少し古い本に古事記と国譲り伝説についてとても面白い大胆な解釈が記されていたのでここで紹介させていただき、さらに私の意見を補足したいと思います。著者の東実氏は鹿島神宮の元宮司ですが残念ながらすでに亡くなっているようです。
書籍「鹿島神宮」の前半は鹿島神宮が祀るタケミカヅチノカミ(建御雷神)を中心とした神話の話、鹿島という土地、さらにはそこから古代社会を大胆に読み解きます。後半は鹿島神宮の歴史や祭事などの紹介です。タケミカヅチノカミは国譲り伝説で活躍をした神です。
さて、鹿島の土地は昔は細長い半島の先の土地で千葉方面から見ると「島」に見えて、「香島」と呼ばれていたそうです(養老7年(723年)鹿島に改称)。つまり、利根川をはさんで対称的に「香島」という地名と「香取」という地名があったのですね。「香島」は古代にはカグシマと発音されていたらしいです。
「神宮」と名の付く神社は今でこそ多いけど昔は鹿島神宮、香取神宮及び伊勢神宮の3つだけであり、鹿島神宮と香取神宮は利根川を隔てて近い場所にあり結びつきが強いらしい。
また、いくつかのHPによれば鹿島神宮、香取神宮、伊勢神宮、明治神宮、皇居、富士山、高千穂などを地図上で結ぶと不思議な直線関係やら規則的な三角形ができるそうなので、興味ある方は調べてみてください。
著者によれば、鹿島神宮がタケミカヅチノカミを祀っているのは、そこがタケミカヅチノカミの拠点であり実際に住んでいたからであり、神社の構成も(何度か建て替えているが)住居を思わせるようです。古事記ではなくて日本書紀に記されていますが、タケミカヅチノカミは国譲りの談判へ出雲へ行くのに先立って、
「地上の中津国の平定の前に、天に悪い神がいてその名をアメノカガセオ(天香香背男、天津甕星)といます。大国主神のところへ出発する前に背後の愁いを排除しておくべく、まずこの神を平定しましょう。」と提案します。
このアメノカガセオは、常陸の大甕(現在の日立市大甕)を根拠地としていて、タケミカヅチノカミは静(茨城県那珂郡瓜連町静(しず))に陣をかまえてこの悪しき神を討伐したそうです。
注目するべきは、アメノカガセオは悪しき神ではあっても国津神ではなくて天津神なのです。タケミカヅチノカミもアメノカガセオも天津神であって高天原に住んでいるはずなのに、どうやら香島(鹿島)や日立にいたのです。
いよいよ今回のハイライトです。天津神のタケミカヅチノカミがなぜ香島に住んでいたかについて、著者は大胆な仮説を立てています。古事記及び日本書紀では、この世は「天」の高天原と「地」の葦原中国があって、アマテラスなど天津神が高天原を治め、大国主神など国津神が葦原中国を治めていたが、葦原中国も天の神が治めるべきであるとして高天原から葦原中国に交渉に遣わされたのがタケミカヅチノカミでした。
大国主神が治める葦原中国が出雲などを中心とした近畿、中国圏を指していることは明かであるが、著者によればこれに対して高天原は東日本圏特に常陸国(現在の茨城県)であったのではないかといいます。真偽は分かりませんが、とても面白い解釈だと思いませんか。高天原(タカアマガハラ)の天(アマ)と海(ウミ)は近い関係にあって(水平線で両者は区別がつきにくいこともある)東の果てでその先に海が広がる土地を「高海原」または「高天原」と呼んでもおかしくないし、実際に茨城県内には3箇所に「高天原」という地名が現存しているのです。その一箇所は鹿島神宮のすぐ近くです。
茨城県の筑波山には2つの峰があり男山と女山と呼ばれているが、これはイザナギとイザナミを象徴していると思われるといいます。筑波山中腹にも「高天原」という場所があるようです。
また、大国主神が国譲りを認めた後に「天孫降臨」があったのは出雲などの中国地方ではなくて九州の高千穂であったのは、
「九州に天降る(あまくだる)のに必要なのは出雲の地ではなく瀬戸内海を通行するのに山陽近畿を治める大国主神命そのものの平定が必要だったとも考えられるのであり、前に述べたように、常陸は高天原に近いことから常陸そのものがその天降りの出発点になったために平定の必要があったとも考えられるのである。」(76頁)と著者は述べています。
高千穂に近い鹿児島(カゴシマ)は香島(カグシマ)と語源を同じにしている可能性があるといいます。

〇以下、私見などを
以上、主に「鹿島神宮」に書かれている内容を紹介してきました。これからは、さらに私の意見、感想、調べたことなどをつらつらと述べてみたいと思います。あくまで素人の気ままで無責任なものですが。

〇神栖市について
鹿島神宮は鹿島市にありますが、その南隣に位置して銚子とは利根川を挟んで対岸にあるのが神栖市です。「栖」は「住」の意味であって神の住む土地という意味なのではないでしょうか。なんだかあまりにもダイレクトなネーミングであって補足説明の余地もないようもな気がしますが、どうでしょうか?
この土地は南には日本最大の利根川が流れ、東は太平洋でひたすら海が広がり、西は北浦と霞ヶ浦が長く横たわっており、北方だけが陸続きになっています。その北方にはタケミカヅチノカミが守る鹿島神宮があり、鉄壁防御の要塞にも思えます。利根川を挟んだ香取市には西方への前線基地として香取神宮が設けられた可能性はないでしょうか。
鹿島灘は太平洋に面して長大に続いており、あたかも神栖市と鹿島市だけで東の海から登る朝日を独占できるかのような素晴らしい土地です。古事記に代表される日本神道は、太陽神であるアマテラスを最高神とする太陽信仰の自然崇拝宗教と言われています。そのアマテラスたち天津神が住む場所としてふさわしいのは、日本で朝日が最も早く登る東端の地に他ならないのではないでしょうか
そう考えると、やはりこの土地がアマテラスたち天津神の住む高天原だったのかもしれません。そして、長大な利根川こそが高天原と葦原中国との第一次境界線であったというのは考えすぎでしょうか。

〇八街市について
鹿島市から陸路(東海道?)を西日本へ行く場合は、昔も今もまずは千葉市方面に向かうことになると思いますが、その途中にあるのが八街市です。
八街(ヤチマタ)、これはつまり古事記でニニギノミコト一行が案内役のサルタビコにであった場所と同じ名前なのです。鹿島あたりをを出発してから比較的すぐの場所で、これから長い道中を安全に旅して行くのに是非とも案内役が欲しくなる絶好のポイントです。偶然にしてはあまりにもドンピシャではないでしょうか? 
ネットで調べた範囲では、「八街市」という市名が決まったのはそれほど古いことではないようなのですが、その決定プロセスははっきりしていないようです。古事記の伝説に由来していたと考えると面白いですね。

〇常陸国風土記における香島郡の記述について
常陸国風土記という古い書物が幸いにも現在まで伝わっており、その中に香島郡に関する記述があります。香島郡の項の冒頭近くに香島という土地のなりたちについて書かれています。何かすごいことが書かれているようなので、ご参考に秋本吉徳氏の現代語訳著より紹介したいと思います。
「清、すなわち天となるべき気と、濁、すなわち地となるべき気とがまだ入り混っていて天地がひらけ始めるより以前に、神々たる天神(中略)が八百万の神々を高天の原にお集めになられた。その時、祖神のおっしゃることには、「今より私の孫の命が統治するであろう豊葦原の水穂の国ぞ」と仰せられた。(こうして)高天の原からお降りになって来られた大神は、その御名を香島の天の大神ととなえる。天、すなわち高天の原では日の香島の宮と名づけ、地、すなわちこの常陸の国では、豊香島の宮と名づける。」

〇掛川市の猿田彦(サルタビコ)神社と銚子市猿田町と他について
これまでの仮説に基づけば、ニニギノミコト一行はサルタビコの案内によって八街、千葉を経由して東海道あるいは海沿いに西へ向かったと考えるのが自然でしょう。
ところで、私は以前に掛川に行ったことがあります。そのときたまたま比較的大きそうな神社を見つけ、何かビビッと感じるものがありました。本殿は見えずに入口の鳥居と、参道の石段と、それを囲む森だけしか確認できませんし、特に整備されてるわけでもなく駐車場すら見当たりませんが、荘厳でおごそかな雰囲気を受けます。なぜだか妙に気になってしまいました。近くまで寄って案内板を見ると、「猿田彦神社」と書いてあるではないですか。そのときは、なぜ東海道沿いのこの地にあのサルタビコが祀られているのか、とずいぶん驚いてしまいました。
地元の人にその神社の由来を聞いてみましたが、「分からない」、、、 とのことでした。
気になりますので帰ってからネットで調べてみると面白いことが判明しました。サルタビコを祀っている神社はいくつかあって、それを列挙すると以下のようになります。もっとあるかもしれませんが。
掛川市には3箇所もありました。
猿田神社(千葉県銚子市猿田町)
猿田彦神社(静岡県掛川市上佐束字)
猿田彦神社(静岡県掛川市山崎)
猿田彦神社(静岡県掛川市幡鎌)
猿田彦神社(三重県伊勢市)
椿大神社(三重県鈴鹿市)
都波岐神社(三重県鈴鹿市)
白鬚神社(滋賀県高島市)
庚申社(福岡県直方市)
猿田彦神社(福岡県福岡市)
荒立神社(宮崎県西臼杵郡高千穂町)
なんと、鹿島地方から天孫降臨の高千穂までの標準的・常識的と考えられるルートにほぼ並んでいるではないですか。つまり、これがサルタビコがニニギノミコト一行を案内した行路であったとは考えられないでしょうか?
簡単に地図上に概略位置をプロットしてみましたので参考にしてください。
下日本地図(猿田彦神社)
神栖の対岸の銚子市に猿田町という地名と猿田神社があるのも驚きました。知りませんでした。サルタビコはあるいはそこまで迎えに来たのでしょうか。地図を見直すとこの猿田町と前記の八街市はともに総武本線沿いで千葉方面へ抜けるには良いルートに思えます。もちろん当時はJRは存在しないわけですが、路線が敷設されるルートというのは人間でも(神様でも?)通りやすいことでしょう。サルタビコは本当に日本中に土地勘があったのかもしれません。
少し気になるのはそれまで大国主神が治めていたと考えられる中国地方には一つも見当たらないことです。もしかしたら、大国主神との無用のトラブルを避けるため大事をとって瀬戸内海航路を選んだのかもしれないですね。これもサルタビコの判断でしょうか?
古事記の中ではサルタビコはあまり登場しないのですが、本当は天孫降臨の長い旅路において案内役、護衛役さらには参謀のような役割を兼ねた重要な神様であったような気がしてきました。
なお、サルタビコは最後に不可解な死に方をしていますが、今回はそこまで触れないことにします。現在、サルタビコは道案内、旅の神として信仰されているようです。
ところで、私は後述するように天孫降臨の場所は霧島連邦の高千穂峰だと考えています。サルタビコを祀る荒立神社は、なぜその最終目的地の高千穂峰ではなくて少し手前の宮崎県西臼杵郡高千穂町にあるのでしょうか? 全く勝手な想像ですが、国津神であるサルタビコは天津神の最終目的地である高千穂峰まで行くことは遠慮して、自分の役割は終わったと直前の荒立神社あたりで潔く身を引いたのではないでしょうか。なぜなら、そもそも旅の出発時においても、サルタビコは出発地の鹿島までは出向かずにすこし南の八街で一行を出迎えていたではないですか。天津神の支配する鹿島及び神栖に足を踏み入れることをはばかったからだと思います。そうすると、逆に最終目的地であり天津神で天孫のニニギノミコトの活動拠点となる高千穂峰にまで同行するのは僭越であると判断するのが自然ではないでしょうか。大国主神が直前まで支配していた中国地方は通り過ぎているので、もうあとは安全と考えてニニギノミコトに暇を申し出たように思えるのです。

あるいは、ニニギノミコトは一度は高千穂峰まで行ったものの、そのころ南九州に住んでいたといわれる隼人民族の勢力がつよいために高千穂町まで少し引き返したということもあるでしょうか。

〇高千穂と鹿児島について
ニニギノミコトは「天孫降臨」といって九州南部の高千穂に降り立ったことになっています。この「高千穂」の場所としては、前記の荒立神社もある九州中部にある宮崎県西臼杵郡高千穂町であるとする説と、九州南部にある霧島連峰の高千穂峰であるとする二説に分かれているようです。私は後者の説をとりますのでその理由を以下に述べます。
日本地図全体を見て気づいたことがあります。朝日に最も近い東方の果て鹿島及び神栖の土地は天津神がすでに抑えてあります。そうすると、その次に太陽信仰の神々・人々が抑えたいと考えるのはどこでしょうか? 太陽が最も天高く登る南方の果て九州南部に着目すると思うのです。
また、鹿島と神栖では朝日に向かってできるだけ東の方がありがたみがあると思うのですが、九州南部までくれば最南端へ行くよりもある程度標高の高い方が太陽に近づけるイメージがあると思うのです。低緯度の地方では南北に多少移動しても太陽の登る高さはあまり変わらなくなります。そこで、九州南部でしかもある程度標高が高い土地として高千穂峰(1574m)へ向かったと考えてはどうでしょうか。
さらに南の大隅半島の高隅山(1237m)では若干標高が低くて落選したのかもしれません。高千穂峰は霧島連峰第二の高さで最高峰の韓国岳(1700m)よりは低いのですが… 高千穂峰の高さで十分と判断されたのかもしれません。
そして、天津神の出身地である東の果てで朝日に向かって海が永遠に広がっている土地を香島(カグシマ)と呼んでいたことから、同じように南の果てで太陽が最も高く登る南方向に海が永遠に広がっている土地を似た名前の鹿児島(カゴシマ)と名付けたような気がするのです。
高千穂峰の頂上にはニニギノミコトが逆向きに突き立てたといわれる剣(天逆鉾)が平成の現在も屹立してますので、どこかのHPで画像を見てください。タケミカヅチノカミが大国主神との談判時に稲佐の浜で逆向きに立てて切っ先に胡坐をかいたという剣を彷彿させます。なんでも坂本龍馬はこれを引き抜いてしまったのだとか…

〇静神社について
タケミカヅツノカミがアメノカガセオを討伐するときに拠点としたのは静という場所でした。静には静神社が現存しており、そのHPによれば鹿島神宮及び香取神宮との結びつきが極めて強いようで、タケミカヅチノカミとの縁が感じ取れます。この静神社の周辺には「鹿島」という姓が多いようです。
静神社のHPから抜粋します。
「静神社は、かって、東国の三守護神として鹿島神宮、香取神宮、静神社として崇拝されてきました。延喜式名神名帳(927年)にも、鹿島神宮などとともに、「名神大」と記され豊臣家から社領として、150石が寄進され、徳川家からも同額の朱印が付されたいます。
鹿島神宮との関わりは古くからあり、常陸一ノ宮、二ノ宮と並び称されているばかりではなく、鹿島神宮の境内に高房社として、静神社が祀られ、拝殿にお参りする前に高房社にお参入りするほどです。また、奥宮の建立に際して、静神社の木が用いられ、海を渡り、鹿島の下津(おりつ)の港に運ばれ、海側から鹿島神宮に運ばれたといいます。」

〇鹿について
古代には「香島」と表記されていた土地は「鹿島」と改称されました。なぜ「鹿」なのでしょうか? これについては「鹿と鳥の文化史」(平林章仁著)に記載があったので抜粋紹介します。
「常陸国鹿島郡(茨城県鹿島町)に鎮座する延喜式内名神大社の鹿島神宮の鹿は、古くから神鹿、神使として崇敬され、「香島」を「鹿島」に改めたのもこの神鹿との関係にもとづくという。また、神護景雲2年(678)に鹿島の神を平城京に歓請して春日大社を創祠する際、神を白鹿の背に乗せて遷座したと伝えられる。今日、内外の観光客に親しまれている「奈良の鹿」の起源をなすものであるが、現在、鹿島神宮にも50頭ばかりの神鹿がいる。この鹿島神宮周辺は水郷としても古来著名な地であるが、昭和33年以降で台風で二度ほど鹿園の柵がこわれて鹿が逃げ出し、北浦湖(幅約1キロ)を泳いでいるところを捕捉したこがあるという。」

〇中国地方の地名について
鳥取県、島根県、広島県、山口県、岡山県は「中国地方」と呼ばれていますけど、なぜですか? 葦原中国が語源ではないのでしょうか?
また、島根県には島根半島で出雲のすぐ近くに日本海側に鹿島という地名があります。原発の町です。もしかすると、タケミカヅチノカミは国譲りの談判時にこの地に寄ったのでしょうか。
また、国譲りの談判が行われた稲佐の浜のやや南西側には神西(ジンザイ)という地名があります。島根半島の付け根部分です。読みは違うけど漢字では茨城県の神栖市とよく似ていて気になります。島根半島の鹿島や神西は、茨城南部の鹿島や神栖という地名に符号しているようにも思えます。

〇稲佐の浜について
さて、これまでは鹿島、神栖など茨城県方面が高天原であるという「鹿島神宮」の著者の仮説に沿いながら勝手な想像で話を進めてきたのですが、最後になって全く別の考えも述べてみます。何をいまさら、、、という感じを受けるかもしれませんが。
タケミカヅチノカミが大国主神やその息子たちに対して国譲りの談判を行ったのは出雲の西側の稲佐の浜でした。
私はこの稲佐の浜を訪れる機会がありました。それほど広くはないですけど砂地の海水浴場で、海岸から数十メートルのところに険しい小島、というか大きな岩があります。弁天島です。おそらくこの小島がタケミカヅチノカミが胡坐をかいて座ったという剣のモデルになっているのでしょう。出雲大社はすぐ近くです。
砂浜で思ったのはタケミカヅチノカミはなぜここを談判の場所にしたのだろうか、ということです。現地に実際立って考えてみると、東方の茨城方面から来るのなら陸路でしょうから島根半島の内陸側または東側に到着するはずなのに、西側のそれも海岸で談判というのはなんとも不自然に感じるのです。
それに、タケミカヅチノカミに刃向って結局逃げ出してしまったタケミナカタノカミは諏訪へ向かっているのです。諏訪と言えばちょうど茨城へ向かう方角であり、相手の本拠地へ向かって突っ込んでいくようなもので逃避にはなりません。ずいぶんと逃げたもので、茨城には結構近くなってしまっていて不可思議です。
地図を添付したので見てください。稲佐の浜は山陰地方から突き出た島根半島の西側でやや弓なりでフック形状に湾曲した海岸線の最奥部です。

出雲・釜山

そうです。韓国から近いし、朝鮮半島南部の釜山や対馬あたりから船出して有名な対馬海流に乗ればちょうど島根半島の弓なりでフック形状の西側面にひっかかることができて航海目的地としてこれ以上ないうってつけの場所なのです。多少うまく舵を取りあるいは風を使えば、ほとんどなにもせずに半自動的に流れ着くのが他でもなく、島根半島における西側面最奥部である稲佐の浜だと思います。
現在でも北朝鮮の難民が小舟で海流に乗って能登半島に流れ着くようなことがありますけど、あれと似た要領で島根半島に来ることもできるはずなのです。
どうしてもタケミカヅチノカミは西から海路で来たように感じるし、それならばタケミナカタノカミが東の諏訪へ向かってはるばる逃げたというのも納得できます。洋上から来た相手は船舶技術に優れているであろうから海沿いに逃げるのは危険であって山側の方がより安全と考えて、できる限り安全な場所を選定すればその行く先は日本で最も険しい山岳地帯である中央アルプス、つまり諏訪方面になるのではないでしょうか。また、朝鮮半島には高い山がないことから、相手は急峻な山には不慣れであろうと踏んだのかもしれません。
大国主神親子に対するタケミカヅチノカミの圧倒的な力というのは大陸文明を背景にしたもので、もしかすると高天原というのは朝鮮半島や大陸側に存在していた文明のことなのでしょうか。
結局は分かりません。分からないところが古代史の面白さなのかもしれないですね。
邪馬台国の場所も近畿説と九州説で決着がついていませんが、それよりも古い神代の高天原の場所など特定するのは容易なことではないでしょう。やはり、天津神の出身地は文字通り「天」とかあるいはこの世とは別次元のような場所と考えておいた方がロマンがあるかもしれません。
たわごとが少し長くなってしまいました。当然に反論、異論も多いことと思いますが素人のお遊びとしておゆるしください。

最後に、「鹿島神宮」から著者の東実氏の意見を紹介して終わりにしたいと思います。
「神話を知らない人々は、日本の良さを知らない人々でもある。そして、今後日本がどのように世界に働きかけたらよいのかもまだ知ることのできない人々でもある。そこで著者は、この若いたくましい力を持った人々のために、今後日本が世界の平和のためにどのような役割を果たせばよいのかということを、神話を通じて考えてみたい」

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