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弦楽器は三種の神器

弦楽器は三種の神器
ご訪問ありがとうございます。

ウクレレの話題が続きました。ウクレレは弦楽器ですが、この弦楽器は日本神話における三種の神器の一つだということはご存知でしょうか?

三種の神器と言えば普通は「やたの鏡・草薙の剣・やさかの勾玉」ですよね。これらは天皇の皇位の象徴で、やたの鏡は伊勢神宮に、草薙の剣は熱田神宮に、やさかの勾玉は皇居に保管されているということは日本人の常識だと思います。
これらは初代神武天皇の三代前のニニギノミコトが高天原から中津国(この地上世界)に降臨する際に祖母のアマテラスから譲り受けたもので天津神の象徴として代々天皇家に伝承されてきた、ということになってます。もっともその間にオリジナルは消失しているようですが。
便宜上、これを「天津神系三種の神器」と呼びましょう。
アマテラスは天上界を統べる最高神でスサノオの姉です。スサノオもアマテラスと同様に極めて高貴な神(三貴神)であって根之堅洲国(ねのかたすくに)を統治していました。根之堅洲国とはいくつかの説がありますが、簡単には堅い根の張っている地底世界とイメージしてください。
つまり、天上世界のアマテラス系の天津神と、この地上世界の国津神と、それ以外に地底世界のスサノオ系の神が存在すると考えることができるかもしれません。ここだけの私の勝手な分類ですが。

さて、日本神話には上記の「天津神系三種の神器」とは別種の三種の神器が記されているのです。
天津神のニニギノミコトが天上界から降臨してくるまではこの地上世界(葦原中津国)はずっと国津神である大国主神が統治していましたが、天津神に統治権を譲ったのでした。天上界から降臨したニニギノミコトは天津神系三種の神器を携えてきましたが、実質的に降伏した側の大国主神も「国津神系三種の神器」とも呼べる3つのアイテムを持っていたのです。
それは大国主神がまだ若いとき、根之堅洲国に行ってスサノオの娘のスセリビメと結婚し、地上世界にもどっく来るときにスサノオから譲り受けた「生太刀、生弓矢、天の沼琴」です。便宜上これを「国津神系三種の神器」と呼びますが、「根の国系三種の神器」とも呼べるかもしれません。
大国主神は元々は優しい性格ながらも周りの強い男神達からいじめられ、いつも女神達から助けられている弱々しい神でした(大国主神の前半生はキリストに似ていると思っています。ご興味あればこちら(http://parmesan111.blog.fc2.com/blog-entry-43.html)をご覧ください)。それが、この国津神系三種の神器を得てからは強い神に変身し、この地上世界を平定し統治することに成功したのでした。
簡単にまとめますと、
天津神系三種の神器は、天上界のアマテラスから、孫のニニギノミコトが譲り受けた、正統な地上界統治委任証明で、
国津神系三種の神器は、地底界のスサノオから、娘婿の大国主神が譲り受けた、正統な地上界統治委任証明、

と言えそうです。天上界と地底界に分かれた姉弟のそれぞれの委任代行者がこの地上界でガチンコにぶつかったのです(いわゆる「国譲り」をこのように姉と弟との対立として整理して把握している人は意外と少ないかもしれません)。
そして結局は天上界派がこの地上世界を治めることになり、「鏡、剣、勾玉」は天皇家のシンボルとなるのに、「太刀、弓矢、琴」は半ば忘れ去られるのです。
もっとも、天津神系三種の神器のうち「草薙の剣」は、元をただせば地底世界のスサノオの所有物だったというのは少し不思議な感じもしますし、国津神系の三種の神器のうち「天の沼琴」は地底ではなく「天の」アイテムのようです。ですから、二系統の三種の神器の存在を天と地との完全な対決構造とは捉えない方がいいのかもしれません。やはり神話は難しいですね。
天津神系と国津神系の三種の神器で「剣」と「太刀」はほぼ同じものなのに、他の「鏡、勾玉」と「弓矢、琴」は全く違うというのも興味深いですし、この相違点において前者は女性の装身具系アイテムであるというのも面白いと思います。
また、剣、太刀、弓矢といった武具が目立ちますがこれらは攻撃用であって、鎧や盾などの防御用はないのですね。

「天の沼琴」ですが、竹田恒秦氏によればこれはお告げをするときに使うもので宗教的権威を象徴するものだいとうことです。「沼琴」というのは意味がよくわかりませんが、「琴」つまり弦楽器であることは確かでしょう。
さきほど、「天の沼琴」は「天の」アイテムだろうと述べましたが、「沼」というのは地底への入り口をイメージさせますね。う~ん、分からんです。

「鏡」というのは古代日本における祭祀の象徴的かつ中心的アイテムだったようですが、鏡の登場以前は「銅鐸」がその役割を担っていたという説があります。銅鐸は古代文献に何の説明もない謎の物品ですが、元々はハンドベルがオリジナル品だったというのは通説のようです(先日、淡路島で銅鐸が発見されましたが内部には音を鳴らすための「舌(ぜつ=振り子)」が入っていました。舌が入った状態の銅鐸が確認されたのは全国で初めてだということで、銅鐸が元々ハンドベルだったということはほぼ確実になりました)。
ハンドベルは原始的楽器と言えると思いますが、国津神系三種の神器の一つにもやはり楽器としての「沼琴」が入っているというのは、古代に楽器全般が神聖視されていたということでしょうか。
太古の昔、我が国では楽器つまり「音」というものが神秘的なものと考えられていたのかもしれません。
もっとも、平成の現代人の私であっても楽器の「音」というものは神秘的に艶美的に感じられることがあります。



ということで、皆さんも日本人ならば神聖なる楽器を弾いて、神秘的な音を楽しんでみてください。それこそ「音楽」です。
それで、具体的楽器としては「沼琴」と同属の弦楽器で手軽なウクレレをおすすめします! 
え? やっぱり話が強引かなぁ…

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太陽信仰は恐怖心理に基づいている

早いもので当ブログも開設一周年を迎えました。この間、著名・人気ブログには足元にも及ばないものの、思いのほか多くの方に読んでもらうことができて自分でも驚いています。読者の皆様には厚く御礼申し上げます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
ブログの内容ですが、当初の自分の思惑とはだいぶ違うものになってしまっていますが、流れに任せてこれからも書いていこうと思っています。


私はこのブログを始めてから太陽というものを意識するようになりました。
師走も半ばにさしかかり日が短くなりました。今の時期、私の住む関東地方では日の出は6時半くらい、日の入りは4時半くらいです。日の出の6時半も遅いけど、日の入りの4時半って早すぎです。3時のおやつを食べて少ししたら日没になってしまうし、定時で仕事を終わっても日は落ちてしまっている訳ですから。
でも、皆さんは部屋でも、電車内でも、車で車道を走っていても電燈があって暖房が利いていて切実な思いなどないでしょうし、むしろ全く気になっていない人が多いのではないでしょうか?

一万年前に地球の気候が安定し、人類は放浪の狩猟生活から抜け出すことができ農耕生活に移行しました。日本でも農耕、主に稲作は主要産業になり自治集落や国を運営維持するために稲の生育は極めて重要な事項になります。古代には他の産業はほとんど存在せず、稲・農業が産業のほぼ全てだったのかもしれません。天皇が行う行事にはいろいろあって、現在では外国主賓の受け入れとか大臣認証式とかありますが、実は古い歴史があって重要度の高いものに新嘗祭(収穫祭のようなもの)があります。また、近世からの行事のようですが天皇自らが田植えや稲刈りをされるのも我が国における古来の稲作の重要性と無関係ではないでしょう。
人類は狩猟生活においても自然とともにあったわけですが、農耕をするようになると「自然」といよりもむしろ「天気」が気になるようになって、特に太陽の運行には相当に神経質になっていたのだと思うのです。
特にこの時期、6時半にならないと日が昇らず、低い運行で、4時半にはもう日が落ちてしまう。暗くて寒い。作物が育たなくなる。
古代の人たちはそれはそれは気になったでしょう。「心配・不安」というようなレベルではなくて、毎年のことではあっても死活的に戦々恐々として「恐怖」を感じていたかもしれません。これはたぶん現代人には理解できないことなのではないでしょうか。
世界には多くの太陽信仰宗教があります。日本の神道も太陽神アマテラスをトップとする太陽信仰宗教ですが、なぜなのか? 大半の現代人は「だって太陽って光と暖かさをもたらしてくれる『偉大な存在』であって『感謝』するからさ。決まってんじゃん。」と思うでしょう。
でも、私は少しだけ違う気がするのです。「感謝」というよりも「恐怖」に近い心情だったのではないでしょうか。
日本神話で最も有名な一節にアマテラスの岩戸隠れ伝説があります。なぜあの一節が特別目立つようになっているのかというと、つまりはアマテラス(太陽)が消滅してしまうことへの「恐怖」だと思うのです。「偉大な存在」としての太陽への「感謝」ということであれば、もっと別の表現がなされていたはずです。
人類は狩猟から農耕に移行して生活は安定しましたが、それでも現代と比較すれば作物不作による飢餓の危険は存在していて、常に「死の恐怖」と隣り合わせだったのだと思います。そのような人々にとって「偉大な存在への感謝」というほどの気持ちの余裕は生まれず、太陽信仰というのはそのような生きて行くための必死で必然の信仰だったと思うのです。
日本人は近世以降、徳川家康を日光東照宮に祀り、明治天皇を明治神宮に祀るように「偉大な存在」を崇めるということをしますが、もう一方で中世以前には「恐怖」をもたらす祟り神をも篤く祀ります。典型的な例は菅原道真を祀る全国に散在する天満宮でしょう。菅原道真の不遇の死の後に日本中に災難が発生し道真の祟りであると考えられて建てられたのが数多くの天満宮です。これも「恐怖」に基づく行動だと言えるでしょう。
現代人は祟りなどというと苦笑して相手にしないでしょうけど、平安時代の人びとにとってはきわめて現実的な問題であったはずです。
先日に当ブログでご紹介した火山と神社との位置関係についても、火山に対する恐怖あるいは畏怖という考え方に基づいていると思います。

まぁ、つまるところ何が言いたいのかというと、神話や古代史を考えるうえで当時の人びとの生活や心情をよく想像して、できれば彼らの身になりきって考えてみることが大事で、そうすることによって神話なども解釈が変わってくる可能性がると思うのです。
近世以降の歴史は古文献解読や遺跡発掘という手段があるし、生活も思考もある程度現代と共通するところがあって研究しやすいのでしょうけど、神話時代・古代というのはそのような手段がほとんどなくて異次元世界を探究するような難しさがあります。
ですから、古事記・日本書紀の解析も重要でしょうけど、まずは古代人の生活・思想に立ち返って考えてみることが必要で、それにより新たな発見もあるような気がするのです。


もうすぐ冬至。古代人の目線で日の出、日の入りを眺めてみませんか。

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大国主神とキリストの共通点

みなさんこんにちは。ご訪問ありがとうございます。

大国主/キリスト
大国主神の絵画:「大穴牟知命」青木繁 1905年
キリストの絵画:「十字架降下」コレッジョ 1526年


今日は日本神話における重要な位置づけにある大国主神とキリストとの共通点についてご紹介したいと思います。なんともミスマッチに感じるこの二人ですがよく比較してみると意外に共通点が多くて、宗教的というより民俗学的に興味深いと思います。
最近になって大国主神とキリストとの類似性について気づいて、ネットで調べてみるとその類似性については複数の方が指摘しているようですが、具体的な共通項について紹介しているサイトが見当たりませんでしたのでご紹介したいと思います。
まず、大国主神とキリストについてごく簡単にまとめてみます。

〇大国主神
天津神が降りてくるまでこの地上世界を統治していた重要な神です。
大国主神は青年時までオオナムヂ(大穴牟知)と言い、出雲に住んでいました。オオナムヂには大勢の異母兄がいて、ほとんど召使か奴隷のように扱われていました。
異母兄達が因幡のヤガミ姫に求婚に出向くとき、オオナムヂは兄達の重い荷物を背負わされて付き添わされますが、少し遅れて付いていきます。荷物がよほど重かったのでしょう。
その途中の海岸で兄達に騙されて瀕死状態となっているウサギに出会ったオオナムヂはけがの処方を教えます(因幡の白兎伝説)。生き延びることができたウサギは、ヤガミ姫はオオナムヂを結婚相手に選ぶであろうと予言し実際その通りになります。
怒った異母兄達はオオナムヂを罠にかけて焼けた大石で潰し殺してしまいました。
彼の死を知った母のサシクニワカ姫は嘆き悲しみ、天のカミムスヒの神に助けを求めました。カミムスヒは日本神話で最初に登場する極めて高貴な性別のない三神のうちの一柱です。カミムスヒはサシクニワカ姫の願いを聞き入れ、二神の女神を地上に遣わせてオオナムヂを生き返らせます。上図左側の絵画はこのときのシーンです。
ところが、オオナムヂが生きていることを知った兄たちはまたしても彼を騙して殺してしまいます。母のサシクニワカ姫は、今度は自らの力でオオナムヂを蘇生させて遠い地へ彼を逃がします。このあとオオナムヂはさらに多くの試練を乗り越えてやがて大国主神としてこの地上の統治者に君臨することになります。

〇キリスト
キリストは男の十二使徒や、聖母マリアおよびマグダラのマリアなどの女性たちとともに各地を廻って布教活動をしていました。キリストは病人を治すなどの奇跡を起こしたりしましたが、時の権力者に目を付けられて捕らわれます。このとき、弾圧を恐れた男の信者達は全て逃げ散ってしまい残ったのは女性たちだけでした。
処刑が決まったキリストは自ら重い十字架を背負わされて刑場に向かい、磔に処せられて殺されてしまいます。最後まで従った聖母マリアたち女性は嘆き悲しみます。上図右側の絵画はこのときのシーンです。
殺されたキリストは埋葬されますが、数日後に生き返ったと言われています。


≪共通点≫
1.大国主神には多くの異母兄、キリストには十二使徒というように、両者とも行動を共にする関係の深い男たちがいました。
2.大国主神はウサギのケガを治し、キリストは病人を治しました。少なくとも日本神話においては病を治す能力を持っているのは大国主神だけのようです。
3.大国主神は兄の重い荷物を、そしてキリストは重い十字架を背負わされています。
4.大国主神もキリストも権力的な強者によってむごい殺され方をしています。
5.大国主神もキリストも母親がその死を嘆き悲しんでいます。
6.大国主神もキリストも、死ぬときやその直後にまわり付き添ったのは女性たちだけでした。それに対して男たちは臆病者や悪者として表現されています。
また、大国主神を救うために天から遣わされた二神の女神は、キリストに帯同していた聖母マリアとマグダラのマリアに対応させることができましょうか。キリスト教で聖母マリアは神格視されていますが、もう一方のマグダラのマリアも本来は神聖な存在なのかもしれません。
ベストセラーのダビンチコードを読まれた方は納得されるでしょうか。
7.大国主神もキリストも殺されたのちに生き返っています。

かなり共通点が多くて興味深いと思います。では、大国主神=キリスト なのでしょうか? いや、この両者は生きた時代も地域も違って別人でしょう。
世界各地の神話、昔話および民話には不思議と同じような内容のものが多いというのは周知の事実であって、大国主神とキリストもその一例なのだと思います。
おそらく元ネタとなる話が存在してその話が時代と地域を超えて伝承されていくうちに少しづつ内容が変化して、大国主神の話とキリストの話に反映されたのではないでしょうか。

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日本神話雑感3;アマテラスの岩戸隠れは冬至だった

アマテラスの岩戸隠れは冬至だった

みなさんこんにちは。
師走、年の瀬ですね。明日は冬至、一年で一番日の短い日です。今日の東京の日の出は6時47分だそうです。
もう少しするとクリスマスがあって、さらにもう少しすると年明けになります。
「盆と暮れがいっしょにやってくる」ことはないけど、「クリスマスと暮れ」はいっしょにやってくるのです。
日の出がもっとも遅くなるのは1月上旬で6時51分(東京)だそうで、なかなか日が昇らない。少しだけ早起きすれば初日の出が見られるわけですが、初日の出を待っていると意外に遅いと感じたことはないでしょうか。太陽系の仕組みを知っている現代人は太陽が昇らないことはないと安心していられるわけですが、それでも時計を見ながら「まだかよ、本当に出てくるのか?」なんて冗談を言ったことはありませんか。
ところで、クリスマスも新年もこの時期ほぼ同時にやってくるのは偶然ではなくて、冬至を過ぎて日が長くなり始めることを祝う世界各地の風習から必然のことなのだという話を聞いたことがあります。
つまり、勢いをなくしつつあった太陽がふたたび活気をとりもどして生き返る時期であることから、「信仰対照の太陽が生まれる時期」が「キリストが生まれた日」に変化してクリスマスのイベントに発展し、さらに太陽の生まれ変わりとしての新たな年の初め、太陽暦の最初の日として選ばれるようになったということです。
電燈も暖房もない古代の人々にとっては、毎年のこととはいえ太陽がなかなか登らなくなって暗く寒くなるこの時期は不安で仕方なかったのではないでしょうか。太陽がちゃんと昇ってくるかどうかは切実な心配事だったかもしれません。
きっと、毎朝の日の出を見ては太陽が勢いを取り戻してくれるように真剣に祈ったことでしょう。そしてやっと冬至を過ぎて日が長くなり始めると、それはそれは安堵しただろうし嬉しくて、お祝いをするとともに太陽に感謝をささげたことと思います。

〇アマテラスの岩戸隠れ神話
アマテラスの岩戸隠れは古事記に書かれている日本神話の中でも一番有名なエピソードではないでしょうか。
一応簡単に紹介しますと、
高天原で乱暴をはたらいた弟のスサノオに恐れをなした姉のアマテラスは洞窟に隠れて入口を岩で塞いでしまい、この世が真っ暗になるとともにトラブルが次々に起こるようになりました。困った神々は河原に集まりオモイカネを議長役として相談し、盛大なお祭りをやってアマテラスを外におびき出すことにしました。こまごまとした準備の後にお祭りが始まりました。このお祭りで活躍したのがアマノウズメという女神でお色気たっぷりのダンスを披露して男神達がおおいに受けて盛り上がり、それにつられてアマテラスもついつい入口を塞いでいた岩を少し開けました。
少し開け放たれた隙間には八咫鏡が置かれており、鏡に映った自分の姿を見てアマテラスは自分と同じような高貴な神がいると錯覚して驚いてスキができます。そこでアメノタヂカラオという怪力の神がアマテラスの腕をつかんで外に引き出すことに成功し、この世に再び明かりが戻ったという神話です。めでたしめでたし。

〇岩戸隠れは冬至だ。初日の出を拝むのはその名残かも
この岩戸隠れ神話の解釈としては、日食で地上が暗くなったことを表現しているのだという説が一般的なようです。
でも何かおかしい気がします。だって日食というはそれほど長い時間続くものではないのですからその間は恐れをなすでしょうけど、すぐにまた明るくなれば「? 今のは何だったんだろう?」という程度で済んでしまうと思うのです。特にものを忘れやすい気質の日本人の場合(今の時期、「忘年会」なんていう風習もありますよね)には、しばらくすればほとんど記憶のかなたに飛んで行ってしまうと思うのです。
それに、日食のきわめて短い時間の間にトラブルが次々に起こるとか、神々が集まって相談をするとか、いろいろな準備をして祭りを開催するとかは実質的にありえないはずです。暗くなるというのはもっと長い時間のはずです。
日食が起きる場所というのもかなり狭い範囲ですから、古事記に書かれるような大事件とはみなされない気がします。
私は、岩戸隠れとは秋から冬になって次第に日が短くなることを不安に感じて、冬至のころに太陽を元気づけたり、あるいは冬至後に日が長くなり始めたことを祝うイベントを行ったことに由来しているように思うのです。
それならば、世界各地の行事と整合性もあるし、日食とは違って毎年のことであって、古代人にとってはとても重要なことであるからこそ古事記にも記されたのだと考えるのです。
「そうに違いない、大発見だ!」と思ったけど、どうやら「岩戸隠れ=冬至」という説はすでに存在しているようです…
そもそも「初日の出を拝む」という風習自体がアマテラスをおびき出す祭りに由来しているのかもしれません。「眺める」ではなくて「拝む」というくらいですから太陽信仰の一形態であることは確かでしょう。
仏教は仏像に向かって拝むけど、アマテラスを最高神とする太陽信仰である神道が拝む対照は本来は太陽であるはずですし、それを最も熱心に(必死に?)祭祀するのは冬至のころであって、その重要なイベントは間接的・抽象的かもしれないけど古事記に記されていて当然だと考えます。それが岩戸隠れ伝説なのでは?

私は、天津神の住む高天原が茨城県鹿島・神栖地方であったのではないかという東実説を以前のブログで紹介しました。この時期、神道つまり太陽信仰の古代の神々・人々は鹿島灘に出てはるかかなた太平洋に昇る朝日に向かって祈ったり祝ったりしたのではないかなぁ。そして、水平線から太陽が昇ると海面に写る太陽を見てそれを「八咫鏡」と考えたということはないでしょうか。
また、神々が集まって相談をした河原というのは利根川のことか、あるいは「河原」というのは「水辺」という意味であって鹿島灘のことだったかも。
さらに、日が短い時期には東の朝日に向かって祈るだけでは足りないと心配になり、太陽がもっともっと高く登ってもらえるように、南天の太陽に近づけるイメージのある南九州高地で祭祀を行うべく「天孫降臨」として高千穂に進出した、ということではないでしょうか。

今回は、ほとんど想像だけで根拠の薄い話でした。(^^;

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日本神話雑感2;アマテラスとスサノオ誕生の地「日向」とはどこか?

アマテラスとスサノオ誕生の地「日向」とはどこか?

日向の位置
地図の説明は後述します。

みなさんこんにちは。
突然ですが、日本は立派な空母を2隻保有していることを知っていますか? これを建造をした石川島播磨重工に勤めている私の友人でも知らなかったのですが…
一応「護衛艦」という名称で艦載機はヘリコプターだけとなっていますが、見た目は威風堂々たる空母ですし、第二次大戦中の空母の中型艦くらいの規模はあるらしいです。しかもこのうちの一隻(二番艦)は垂直離陸型戦闘機の搭載・運用も可能なスペックになっているようです。ステルス機で次期主力支援戦闘機に選定されたF35Aは通常離陸型ですが、その派生機で垂直離陸型のF35Bであれば搭載可能みたいです。あきらかにF35Bの搭載を意識した設計に見受けます。
日本がこのような空母を保有することについてはお金もかかるし右傾化とか軍国主義復活とかの批判もあるかと思いますが、隣国の韓国や中国の方が先行して空母の配備を進めているし、それらの母港は対日本を念頭に置いているとしか思えない場所で運用していますので、日本も後追い的に対向して配備せざるを得ないと思います。
さて、また余談から入りましたが、その2隻の空母の艦名が「ひゅうが」と「いずも」という古事記ゆかりの名前なのです。日本を守る艦としてふさわしいし、なんとも粋なネーミングではないでしょうか。

〇アマテラスとスサノオ誕生の地「日向」とはどこか?
この日本を最初に作るために地上に遣わされたのはイザナギとイザナミの夫婦神でしたが、イザナミは国つくりの途中で亡くなってしまいます。嘆き悲しんだイザナギは黄泉の国へ死んだ妻を取り戻しに行きますが、ちょっとしたトラブルから夫婦喧嘩をして地上に逃げ帰ってきます。地上に戻ったイザナギは身に付いた穢れを祓うために禊を行います。このとき生まれたのが姉のアマテラスと弟のスサノオで、その場所こそが「日向」であったといいます。イザナギは、アマテラスには天をスサノオには海を統治するように指示します。
さて、「日向」は古事記では「ヒムカ」と読むらしくその場所は不詳だということですが、その漢字表記から宮崎県の「日向(ヒュウガ)」と考えられているようです。妥当でもっともな説とも思われますが、ちょっと異論を提起したいと思います。
というのも、それから後のエピソードである天孫降臨ではアマテラスの孫であるニニギノミコトが地上統治のために九州の高千穂に降り立ったということになっていまして、日向(ヒュウガ)とは近すぎるからです。現在、高千穂も日向(ヒュウガ)も同じ宮崎県内です。
天孫降臨は、この地上を天皇の祖先が治める第一歩となった大事業でして古事記の中でももっとも重要なエピソードの一つと言っていいと思います。その重要な出来事が、元々アマテラスが生まれた日向(ヒュウガ)と同じ宮崎県内の高千穂だというのは何か不自然だし、「天孫降臨」と呼ぶには大げさな感じがします。少し頑張れば、子供でも自転車で日帰り往復できそうな距離ではないですか。
「天孫降臨」というからには、その場所は今まで天津神たちが全く足を踏み入れたことがないところだと思うのです。そうすると、「日向(ヒムカ)」は宮崎県からはずっと離れた場所でなくてはいけないでしょう。

冒頭の地図をもう一度見てください。
宮崎県の日向(ヒュウガ)は、昔は新婚旅行の定番地であったように、南国で太陽の昇る東の海に向かって広い日南海岸が広がり、いかにも「日に向かう」という名前がピッタリ合う景勝地です。だからこそ「日向」と名づけられたのでしょう。
ところで、このような太陽の昇る東の海に向かって広い海岸が広がる場所で、「日向」と呼んでもよさそうなところが日本にもう一か所あります。地図を見れば明らかだと思いますが、東の鹿島灘です。
古代の日本人にとっては鹿島灘や神栖市は東の果ての地であって、太陽が最も早く昇る場所であり「日向(ヒムカ)」と呼ぶにふさわしかったと思うのです。
この地こそイザナギが禊を行ってアマテラスとスサノオが生まれた土地「日向(ヒムカ)」であったとは考えられないでしょうか?
私は、天津神の住む高天原が茨城県鹿島・神栖地方であったのではないかという説を前回のブログで紹介しました。
アマテラスとスサノオが生まれた「日向(ヒムカ)」が鹿島灘であったとすると、その場所がそのまま高天原として天津神が住むようになったことになり、その後の話が無理なく非常にスムーズにつながるのです。
後の「天孫降臨」の地としてそれまで統治をしたことのない遠い宮崎県高千穂を選定したことも納得できます。きわめて遠い地を新たに統治しようとしたからこそ「国譲り」「天孫降臨」という大事業として古事記に記されることになったのではないでしょうか。

また、イザナギは、アマテラスには高天原を、スサノオには海原を統治するように言い渡します。でもなぜ、「天と地」ではなくて「天と海」だったのでしょうか? 天とはつまり高天原なのですが、前回のブログで紹介した東実説では、高天原は茨城県だったそうです。つまり、鹿島灘に立ってみれば、それは西側ということになります。一方、「海」とはまぎれもなく太平洋でしょうから、「天と海」という区分けは鹿島灘からみれば「西側の陸の世界と東側の海の世界」ということになり、高貴な2神にとって大変バランスのとれた分け方と言えそうです。(この他にも夜を統治するツクヨミという神様がいましたが、この神様はちょっと影が薄い存在なのでここでは触れませんでした。)
北方及び北東に人(神様?)の住むのに適した陸地がたくさんある宮崎県日向(ヒュウガ)では、こういうバランスのよい区分けはできなかったと思います。

さらに、古事記では似たような話が何度か繰り返される特徴がありますが、天孫降臨の後に登場する山幸彦と海幸彦は、高天原(茨城県)を統治したアマテラスと海原(太平洋)を統治したスサノオに対比させることもできそうです。

今回も素人の想像を楽しく書かせてもらいましたが、前回の話の展開に較べると証拠や根拠やらが弱いかもしれません。あくまでも素人の夢想ということで大目にみてやってください。

ということで、日本の空母の艦名は「ひゅうが」ではなくて「ひむか」に改称しましょう!?

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