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日本神話雑感7;東京近郊の競馬場の不思議な位置関係

東京近郊の競馬場の不思議な位置関係
 == 鹿島神宮~富士山レイラインからの考察・その4 ==

スポーツ施設配置図東京2

みなさんこんにちは。
一連の鹿島・富士レイライン(仮称)のトピックの4回目です。
前回のブログでは、東京近郊のスポーツ・娯楽施設がレイライン上か、または皇居を中心として経度線を基準として線対照な第二ライン上に多く配置されていることをご紹介しました。
ところで、鹿島神宮から富士山までの主要な施設の調査をしている際に、2つの競馬関連の施設、つまり大井競馬小林牧場(千葉県印西市)とJRA競馬学校(千葉県白井市)があることが少し気になりました。
そこで、東京近郊の競馬場ついて場所を確認してみるとまたまた面白いことが分かりましたのでご紹介させてもらいます。
冒頭の図をご覧ください。
東京近郊の競馬場といえば、府中競馬場、中山競馬場そして大井競馬場だと思います。その3つの位置を調べると期待に反してレイライン上ではなかったのですが、3か所を結んでみるときれいな二等辺三角形ができあがりました。
つまり、大井競馬場を頂点として府中競馬場および中山競馬場までの距離がそれぞれ25kmなのです。
三角形の底辺、つまり府中競馬場から中山競馬場までの直線について、中間点が皇居あたりであれば面白かった(?)のですが、残念ながらそうではなく、府中競馬場から皇居までは22kmくらい、中山競馬場から皇居までは20kmくらいです。
この底辺の直線上には、味の素スタジアム、東京ドーム、スカイツリーがあるようです。
大井競馬場と中山競馬場とを結ぶ辺に対しては、辰巳国際水泳場と葛西臨海水族園が微妙に近いです。これらがみなメジャーな施設であることはもちろんです。
前回のブログでは、プロ野球の関連施設が東京ドームを基準とした配置になっているように見受けることをご紹介しましたが、東京ドームは競馬場の配置についても何か意味があるのかもしれません。そういえば、東京ドームには場外馬券場がありましたね。
このように、3つの競馬場は神話やレイラインとはあまり関係なかったようですけど、なにか意識的な配置をしたとしか思えません。


 
このような東京近郊のスポーツ施設、娯楽施設、競馬場などが規則的に配置されているということはどういう意味があるのでしょうか? ちょっとそこまでは分かりかねます。多くのHPでは、「鹿島・富士レイラインがパワースポットだから」という説明がされていますが、そうなのでしょうか? どなたかご意見があればお知らせください。
鹿島・富士レイラインのトピックは、一応今回で一区切りにしたいと思います。

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日本神話雑感6;東京近郊におけるスポーツ・娯楽施設の不思議な配置関係

東京近郊におけるスポーツ・娯楽施設の不思議な配置関係
 == 鹿島神宮~富士山レイラインからの考察・その3 ==

スポーツ施設配置図東京1


みなさんこんにちは。
一連の鹿島・富士レイライン(仮称)のトピックの3回目です。
前回のブログでは、鹿島神宮から富士山までの主要な特徴的施設についてご紹介しました。
その調査をしている際に気づいたのはスポーツ・娯楽施設が意外と多いということです。
特に、日ハムの鎌ヶ谷練習場(斎藤祐樹もいる二軍グランド)や巨人の練習場を備える読売ランドがレイライン上にあることが気になりました。日ハムと巨人といえば、昔は同じ東京ドームを本拠地にしていた縁のある球団同士です。
そこで、日ハム、巨人を含めて関東圏のプロ野球の球場や、その他娯楽施設について場所を確認してみると非常に面白いことが分かりましたのでご紹介させてもらいます。
冒頭の図をご覧ください。この図が全てを物語っているのですが文章で補足説明いたします。

〇レイライン上のスポーツ施設
まず、レイライン(図の赤線)上およびそのすぐ近くにあるスポーツ施設としては日ハム練習場、新旧国技館、東京ドーム、武道館、国立競技場、東京体育館、神宮球場(ヤクルトのホームグランド)、代々木体育館、巨人練習グランドが挙げられます。図示しませんでしたが秩父宮ラグビー場もそうです。東京のメジャーなスポーツ施設はほとんどこのレイライン上にあって、例外のほうが少なそうです。特に、神宮周辺の過密ぶりが目立ちますね。
冒頭の図では少しわかりにくいかもしれないのですが、日ハム練習場はきれいにレイライン上にありますが、東京ドームと読売ランド内の巨人練習場はレイラインから少しだけ北側にずれています。
そして、東京ドームは日ハム練習場と巨人練習場とを結ぶ黄色直線(第一ラインとします)上のちょうど中間点にあります。日ハム練習場から東京ドームおよび皇居までは22kmで、巨人練習場から東京ドームおよび皇居までは同じく22kmです。
その皇居は、鹿島神宮から富士山までの中間点でもあるのです。この中間点を意識してバランスをとった配置にしているとしか思えません。


〇レイライン上の娯楽施設
レイライン上およびそのすぐ近くにある娯楽施設としてはスカイツリー、後楽園、旧向ヶ丘遊園、読売ランドが挙げられます。

〇第二ライン上の西武ドーム、マリンスタジアム、千葉総合運動公園
さて、日ハム、巨人およびヤクルトの関連施設がレイライン上またはそのすぐくにあるのに、我らがライオンズ(私は西武ファンです ^^;)の西武ドームは蚊帳の外か… と少し残念に感じてしまったのですが、西武ドームと残りのもう一つの関東球団であるロッテのマリンスタジアムとの位置を調べてみると、これもまたビックリな関係が表れてきました。
なんと、東京ドームまたは皇居は西武ドームとマリンスタジアムを結ぶ黄緑直線上にあるのです。この黄緑線は第二ラインとします。
西武ドームから東京ドームおよび皇居までは32kmで、マリンスタジアムから東京ドームおよび皇居までは25kmです。7kmの誤差がありますが、黄緑の第二ライン上で西武ドームと対称となる皇居から32kmの箇所には千葉総合運動公園があります。ご存じない方も多いかもしれませんが、千葉国際駅伝の舞台ともなる立派な施設です。やはりレイラインの中間点である皇居を意識してバランスをとっているようにしか思えません。
また、黄色の第一ラインと黄緑の第二ラインは経度線または緯度線を基準にしてほぼ線対称になっていることも特徴的です。

〇第二ライン上のその他の施設
第二ライン上のその他のスポーツ施設としては、さらに西武園ゴルフ場、西武園競輪場、千葉総合水泳場が挙げられます。千葉総合水泳場はソウル五輪で金をとった鈴木大地を記念して作られた立派な50mプールです。
また、娯楽施設としては、西武園、千葉市動物園が挙げられます。千葉市動物園は千葉総合運動公園に隣接し、以前話題になった直立するレッサーパンダの風太がいるところです。

さて、メジャーなスポーツ・娯楽施設と言えば競馬場が挙げられるかもしれません。これについては次回に考えてみたいと思います。

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日本神話雑感5;鹿島神宮~富士山までの主要施設

鹿島神宮~富士山までの主要施設
 == 鹿島神宮~富士山レイラインからの考察・その2 ==

レイライン都内


みなさんこんにちは。
前回のブログでは、鹿島神宮と富士山とを結ぶ鹿島・富士レイライン(仮称)が立冬および立春における日の入り方向であることから、アマテラスの岩戸隠れ伝説は立冬、立春における太陽が富士山の頂部に沈むことを表しているという意見を述べました。
この鹿島・富士レイライン上にはさまざまな特徴的建造物・施設が配置されていることが多くの人に指摘されています。そこで、私も自分自身でこれを地図上で検証してみました。とても面白かったです。過密大都市東京に任意の一本の線をひけばその上にはいろいろな施設が存在するのは当たり前のことなのですが、それを差し引いてもこの鹿島・富士レイライン上には特徴的な施設が多くあって偶然とは思えません。特に皇族関連施設やスポーツ施設が多く存在しています。気になったいくつかの施設についてコメントさせていただきます。冒頭の図もあわせてご参照ください。

〇大井競馬小林牧場、JRA競馬学校
競馬関連の施設がレイライン上に2つありました。1つだけだったら偶然だろうと気に止めることもなかったのですが。これについては次回以降に検討してみたいと思います。

〇千葉ニュータウン中央駅 
レイライン上にはいくつかの駅も存在していて、千葉ニュータウン中央駅は目立つ存在でもないのですが、この駅は位置だけでなく線路・ホームの向きがレイラインにきれいに一致していました。

〇八幡春日神社
鹿島神宮~富士山までは185kmほどですが、その行程の1/3の地点にあるのが八幡春日神社です。偶然かもしれませんが。

〇日ハムの二軍球場、読売ランド
日ハムの鎌ヶ谷二軍グランドがありました。これも当初は偶然だろうと思っていたのですが、少し離れたところに読売ランドもレイライン上にありますし、その読売ランドの敷地内には巨人の練習グランドがあります。昔は巨人と日ハムは同じ東京ドームをフランチャイズ球場に使用していた縁のある球団です。何か偶然ではないような気もしましたので少し調べてみました。これについては次回にお話したいと思います。

〇スカイツリー
なんと、つい最近できて日本一の高さで話題となっているスカイツリーもこのレイライン上にありました。
さらに……
冒頭の地図のように、東京の地図を見ていると中央線の立川~新宿の長い直線区間がとても印象的ですが、それを東に延長してみると鹿島・富士レイラインと交わる箇所にちょうどスカイツリーが立っています! 西武新宿線の長い直線区間についても同様です。 これって偶然なんでしょうか?

〇旧蔵前国技館
旧蔵前国技館もレイライン上でした。現在の両国国技館も近くてほぼレイライン上です。

〇皇居 天守閣跡
皇居天守閣跡もレイライン上であって、しかも鹿島神宮と富士山のほぼ中間点になります。鹿島・富士レイラインの大きな特徴ですね。

〇吹上御所(皇居内)、東宮御所(迎賓館内)
天皇が住まわれている吹上御所および皇太子が住まわれている東宮御所もレイライン上です。レイライン上には皇族関連の施設が多いです。

〇迎賓館
レイラインは迎賓館の敷地内を通るだけでなく、正に迎賓館の本館を通っているようです。

〇神宮外苑
神宮外苑は陸上競技のトラックを大きくしたような一周1.3kmの周遊路(通称瀬古ロード)で囲まれており、レイラインはそこを通っています。しかもその周遊路のほぼ中央には東西の横断路が設けられているのですが、レイラインはこの横断路に向きも含めて一致しています。

〇国立競技場
1964年東京オリンピックが開かれ2020年オリンピックの会場にもなる国立競技上もレイライン上です。

〇原宿駅
原宿駅もレイライン上です。レイライン上にはいくつもの駅が存在しますが、皇族専用ホームを有する原宿駅がレイライン上にあるのは象徴的な感じを受けます。

〇明治神宮
本殿はレイライン上から少しずれていますが、レイラインはその敷地内を通っています。

〇小田急線の9kmの直線区間
冒頭の地図を見てもらいたいのですが、これはすごいですね。小田急線の経堂~喜多見までの約9kmの直線区間が、レイラインと完全に一致しています。

〇京王線の6kmの直線区間
京王線の下高井戸~初台までの約6kmの直線区間はレイラインからは少しずれているのですが、その向きはレイラインに完全に一致しています。
また、地図をよく見ると、京王線は調布から芦花公園までは直線であってそのまままっすぐ進めば終点の新宿に至るのにわざわざ遠回りし、レイラインに近づく方向に進路を変えて、そしてレイラインに沿って並行な下高井戸~初台の直線区間が設けられているようにも見受けられます。
さらに、上記の小田急線の9kmの直線区間が終わった後の明治神宮あたりまでをちょうど補うように京王線の直線区間が設けられているようにも見えます。

〇鹿島神社
鹿島神宮から富士山までの行程のちょうど2/3の地点にはなんと「鹿島神社」が存在しました。「鹿島神社」という名称の神社はたくさんありますが、この地点に存在するのは偶然とは思えません。
しかしながら、ここの鹿島神社は現在は米軍相模総合補給廠の敷地内にあって米軍関係者以外は入ることができないようです。とりあえず、取り壊しだけは免れているみたいですが、ある人のHPによれば米国人がその境内でバーベキューをやっているのだとか。なんとも残念な気がします。
JRリニア中央新幹線の駅が設けられる橋本駅はすぐ近くです。

〇宮ケ瀬湖のやまびこ大橋
なんのことはない普通の橋みたいですが、向きも含めてレイラインに一致しています。



なんだか都市伝説っぽい話になってきてしまいましたが、オカルトでもトンデモ話でもなくて誰でも簡単に調べられる事実ということが面白いです。
以下に、鹿島・富士レイライン上で特徴的と思われる施設を順にリストアップしました。
全てをピックアップすることはできませんでしたが、レイライン上およびその近辺には神社が多いようです。
鹿島神宮~富士山までの範囲に限定しましたが、この先には伊勢神宮、蒲郡市鹿島町、高知城、天孫降臨の舞台とも言われる高千穂町などもほぼレイライン上にのるみたいです。




鹿島・富士レイライン上の特徴的建造物・施設
・スタート;鹿島神宮

→ 潮来市役所、神崎町役場、 神崎神社、 小林駅、 鳥見神社、 大井競馬小林牧場、 千葉ニュータウン中央駅、 白井市役所、 白井駅、 JRA競馬学校、 海上自衛隊下総航空基地、 香取神社、 宗像神社、 鎌ヶ谷市役所
・八幡春日神社 (1/3地点)
→ 日ハムの二軍球場、 三社宮、 千葉商科大学、 小岩駅、 スカイツリー、 旧蔵前国技館、 気象庁、 皇居 平川門 
・皇居 天守閣跡 (中間点)
→ 武道館、皇居 吹上御所、 皇居半蔵門、 ホテルニューオータニ、 迎賓館、 赤坂 東宮御所、 神宮外苑、 国立競技場、 明治公園、 原宿駅 、 明治神宮 、 代々木体育館、 NHK、 東大生産技術研究所、 羽根木公園、 京王線 新宿~下高井戸の直線区間、 小田急線の9kmの直線区間、 生田浄水場、 狛江市役所、 読売ランド、 米軍相模総合補給廠
・鹿島神社 (2/3地点)
→ 相模原市役所、 麻布大学、 桜美林大学、 宮ケ瀬湖のやまびこ大橋、 山中湖、 山中湖村役場
・ゴール;富士山頂上 (鹿島神宮から185km)


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日本神話雑感4;アマテラスの岩戸隠れは立冬の富士山だった

アマテラスの岩戸隠れは太陽が富士山に隠れる立冬、立春だった
 == 鹿島神宮~富士山レイラインからの考察・その1 ==


鹿島神宮~富士山レイライン
この図の説明は後述します。

みなさんこんにちは。
私は、先日のブログに「アマテラスの岩戸隠れは冬至だった」という主張をしましたが、早くも修正させていただきます(汗;)… といっても全訂正とか言うわけではなくて補足・補強修正的な意味合いですのでどうぞご容赦ご理解を。
今回の修正主張は、「アマテラスの岩戸隠れは太陽が富士山に隠れる立冬、立春だった」ということですが、順を追って説明させていただきます。
以前に、天津神の住む高天原が茨城県鹿島・神栖地方であったのではないかという東実説を以前のブログで紹介いたしましたが、今回もその説をベースに考えてみたいと思います。

〇前回説の欠点
「アマテラスの岩戸隠れは冬至だった」という主張をしたときには、太陽が昇るのが遅くかつ低くなる秋から冬にかけて、特に冬至のころに鹿島灘から東の海から昇る朝日に向かって祭祀をしたことが岩戸隠れ伝説の原形であろうという考えでした。これはこれでそれほど間違っていなかったと思うのですが、ただし、「アマテラスが岩戸に隠れる」という表現で伝えられていることに多少の違和感も感じていました。東の太平洋と「岩戸」というものがどうも馴染みにくい気がしていたのです。当たり前ですが、いくら地図上で太平洋を眺めても、ネット検索をして海岸の画像を探しても「岩戸」のモデルになりそうなものは見当たりません。結局、「岩戸」の正体は分からずじまいでした。
この時点では、鹿島や神栖地方は東の果てで鹿島灘に面しているという特徴があることから「東」の方向と「海」と「日の出」ばかりにこだわってしまい、「西」の方向も「山」も「日の入り」も全くノーマークだったのです。

〇鹿島神宮~富士山レイラインの調査1; 冬至の日の入り方向ではない
ところで、それらのブログを書くためにネットを調べていた際に鹿島神宮、富士山、皇居、伊勢神宮、諏訪大社などの位置を地図上で結ぶと直線関係や規則的な三角形ができるらしいことを知りました。面白そうなので改めて少し調べてみる気になりました。
その中でも最も有名なのは鹿島神宮~皇居~富士山~伊勢神宮を結ぶ直線関係で、レイラインと呼ぶらしいです。ここでは鹿島・富士レイラインと仮称します。伊勢神宮はアマテラスを祀っていることは有名ですね。(ただし、等方位地図で確認したところ、レイライン上にのるのは厳密には伊勢市というよりは隣の松阪市みたいですが)
まず、いろいろなHPの解説を読むと、鹿島神宮と富士山のちょうど中間には皇居があり、鹿島・富士レイライン上にはスカイツリーやその他メジャーな建築物・構造物がたくさん配置されているそうです。これらの建築物等については次回に改めて考えてみたいと思います。
多くのHPのでは、「鹿島・富士レイラインは冬至における日の入りの方角を向いている」と説明されています。これらの説明を読んだときは、「そうか、東ばかり考えていたけど「岩戸」とは冬至における西の富士山のことだったのだ! 日の入り時に太陽が富士山に隠れることこそ「岩戸隠れ」の正体に違いない!」と喜んでしまったのです。これなら、前回説がほぼそのまま正しかったことになり、補強根拠を発見したことになります。
ただ、念のために冬至(12月22日ころ)の日の入りの方角を調べてみると、冒頭の地図のように、鹿島神宮からみると富士山ではなくて小田原の方角になってしまいます。あれれ、だいぶずれている??? 多くの方が「鹿島・富士レイライン=冬至の日の入り方角」と指摘しているので、多少の誤差であれば信じてしまっても良かったのですが、あまりにもずれが大きい。ネットをみると、「Yahoo知恵袋」でただ一人だけ鹿島・富士レイラインと冬至の日の入り方向のずれを指摘している人がいましたが…。なぜこれほど単純なことを大多数の人は勘違いしているのでしょうか? なんとも不思議です。鹿島神宮の関係者の方々は分かっているのかもしれませんが。

〇鹿島神宮~富士山レイラインの調査2; 立冬、立春の日の入り方向だ
そこで、もう少し調べてみると、鹿島・富士レイラインの方角は、ちょうど立冬(11月7日ころ)および立春(2月4日ころ)で日の入りの方角にピッタリ一致することが分かりました。これだ!
つまり、こういうことだと思います。古代の人々は、秋から冬に向けて日が短くなることを心配して太陽に向かって祭祀を行ったのであって、それは冬至だけの短期間ではなくて、その前後比較的長期わたって行っていたのかもしれない。冬至になってから慌てて太陽に祈っても、「時すでに遅し」となっては困るでしょうから。
そうすると、いつ祭祀を始めて、いつまで続ければいいのでしょうか? 皆さんだったどう考えますか? 「そうだなぁ、それならばとりあえず冬の間やれば十分なんじゃないの」と考えるのが自然で妥当ではないでしょうか。そこで「冬の間」というのは、二十四節気に従って換言するならば「立冬」から「立春」までの約3か月間なのです。
古代の鹿島や神栖に住んでいた神々・人々は立冬になって太陽が富士山の頂に沈むようになるとアマテラスが「岩戸に隠れた」と考えて、太陽の勢いが回復するように祈ったり祭祀を行ったのだと思いますし、十分な効果が得られるためには比較的長期にわたって行うべく年明け後の立春まで続けたのではないでしょうか。そして立春になると太陽が再び富士山の頂に沈むようになり、春の到来が認識されて安堵し一連の祭祀を終えたと思います。
そして、鹿島神宮から見て「アマテラス=太陽」が隠れる「岩戸=富士山」の方向には、正にアマテラスを祀る伊勢神宮があるというのは非常に象徴的だと思います。これは、逆にいえば立夏(5月6日ころ)および立秋(8月7日ころ)には伊勢神宮から見て富士山&鹿島神宮の方向から日が昇るということにもなり、両神宮の結びつきの強さがうかがわれます。
鹿島神宮において、これらの立冬や立春の季節判断のためには、東の太平洋側で日の出を見ても何の目標物がなくて難しかったでしょうから、西の山々を見て、その中でも最も目立つ富士山を基準にして祭祀を開始し、そして終えたのでしょう。さらに、それにちょうどよい場所を選んで鹿島神宮を建てて太陽観測ベース基地としての機能も持たせていたのだと思うのです。
また、その間の祭祀はずっと同じことをしていたのではなく、例えば立冬からしばらくは準備的な軽いもので、日がもっとも短くなる冬至のころには一番盛大かつ真剣に祈りを捧げていたかもしれません。古事記にも、アマテラスが岩戸に隠れてから、アマテラスをおびき出す祭りを開催するまでにこまごまとした準備をすることが記されています。
鹿島神宮が立冬と立春だけではなくて、やはり冬至をも強く意識した作りになっている証拠については後述します。
さらには、古事記ではアマテラスが岩戸に隠れてから災いが起こったと記されていますが、古代の人々にとっての最も大きな災いとは作物が作れなくなることかもしれませんから、立冬のころから草木が枯れていくことによく符号すると思います。

〇鹿島神宮は太陽観測ベース基地だ。その参道はレイラインだった
さて、鹿島神宮が立冬と立春の季節判断をする太陽観測ベース基地の機能を持っていたとすると、その機能を示すものが境内にあるのではないでしょうか。そう思って調べてみると、やはりありました。下の境内の写真図を見てください。
鹿島神宮境内

普通の神社は本殿、参道及び大鳥居が南か東を向いていますが、鹿島神宮は大きくことなる構造をしています。本殿は北北西に向き、参道、楼門および大鳥居は西南西というなんとも中途半端な向きなのです。しかも、参道のうち大鳥居から楼門までの表参道と、楼門から奥宮へ至る奥参道とは境となる楼門の箇所で微妙かつ奇妙に折れ曲がっています。
地形的制約がなければ、参道は南あるいは東に向かってきれいな一本の直線にするはずなのに、南でもなく東でもなく南東でもなく、中途半端な向きでしかも屈曲している。なぜこのようなあまりにも不自然な構造なのでしょうか? 
写真図で明らかと思いますが、奥参道は立冬および立春における日の入り方向、つまり鹿島・富士レイラインにきれいに一致しており、換言すれば伊勢神宮に向いているのです。一方の表参道は、ちょっと分かりにくいのですが冬至における日の入り方向にほとんど一致しているようです。
このように、鹿島神宮は立冬、立春および冬至を強く意識した作りになっています。つまり、奥参道から見てその延長線上の富士山に太陽が沈むときが立冬または立春として認識され、表参道から見て大鳥居の先の延長線上に太陽が沈むときが冬至として認識されたのでしょう。当然、これらの時期には何らかの祭祀が行われたと考えられます。私は、それらの祭祀がアマテラスの岩戸隠れ伝説におけるアマテラスおびき出しイベントの原形になったと思うのです。

〇神無月について
旧暦で10月の「神無月」とは本来は「神の月」だという説があるようです。よく言われているのは、日本全国の神様が出雲大社に出かけてしまって地元を留守にするから「神がいなくなる月」で「神無月」と呼ばれるという説ですが、これは中世以降の俗説らしいです。私もそういう気がします。どうしてって、出雲大社が祀る大国主神は国譲りで隠居してしまったのですから、全国の神を呼び集めるような権限はないと思うのです。それに大国主神は、天津神よりランクが下位の国津神なのですから。
では、「神無月」が「神の月」だとすると、それはなぜでしょうか? この旧暦10月というのは「立冬」から始まる月でして、「神の月」と名づけられたのは岩戸隠れ伝説に関連しているような気もします。つまり、鹿島神宮から見て「アマテラス=太陽」が「岩戸=富士山」に隠れてしまい、日が短く弱くなる季節に、最高神のアマテラスを一層大事に祀らなければならないと強く意識をする月、という意味ではないでしょうか? うーん、ちょっと根拠が弱そうですね。ちがうかなぁ…

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デッサン画

ブログを始めてみたものの少し硬い話題ばかりになってますので、今日はちょっと柔らかめに私の描いたデッサンを二点ご紹介させてもらいます。素人であんまりうまくはないですが、恥を忍んで…

デジカメです。ちょっといびつかなぁ
デッサンデジカメ


縦置き型掃除機です。上のデジカメ画よりはいい出来かな。これを描いていて思ったのは「掃除機って意外とかっこいい!」
デッサン掃除機



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日本神話雑感3;アマテラスの岩戸隠れは冬至だった

アマテラスの岩戸隠れは冬至だった

みなさんこんにちは。
師走、年の瀬ですね。明日は冬至、一年で一番日の短い日です。今日の東京の日の出は6時47分だそうです。
もう少しするとクリスマスがあって、さらにもう少しすると年明けになります。
「盆と暮れがいっしょにやってくる」ことはないけど、「クリスマスと暮れ」はいっしょにやってくるのです。
日の出がもっとも遅くなるのは1月上旬で6時51分(東京)だそうで、なかなか日が昇らない。少しだけ早起きすれば初日の出が見られるわけですが、初日の出を待っていると意外に遅いと感じたことはないでしょうか。太陽系の仕組みを知っている現代人は太陽が昇らないことはないと安心していられるわけですが、それでも時計を見ながら「まだかよ、本当に出てくるのか?」なんて冗談を言ったことはありませんか。
ところで、クリスマスも新年もこの時期ほぼ同時にやってくるのは偶然ではなくて、冬至を過ぎて日が長くなり始めることを祝う世界各地の風習から必然のことなのだという話を聞いたことがあります。
つまり、勢いをなくしつつあった太陽がふたたび活気をとりもどして生き返る時期であることから、「信仰対照の太陽が生まれる時期」が「キリストが生まれた日」に変化してクリスマスのイベントに発展し、さらに太陽の生まれ変わりとしての新たな年の初め、太陽暦の最初の日として選ばれるようになったということです。
電燈も暖房もない古代の人々にとっては、毎年のこととはいえ太陽がなかなか登らなくなって暗く寒くなるこの時期は不安で仕方なかったのではないでしょうか。太陽がちゃんと昇ってくるかどうかは切実な心配事だったかもしれません。
きっと、毎朝の日の出を見ては太陽が勢いを取り戻してくれるように真剣に祈ったことでしょう。そしてやっと冬至を過ぎて日が長くなり始めると、それはそれは安堵しただろうし嬉しくて、お祝いをするとともに太陽に感謝をささげたことと思います。

〇アマテラスの岩戸隠れ神話
アマテラスの岩戸隠れは古事記に書かれている日本神話の中でも一番有名なエピソードではないでしょうか。
一応簡単に紹介しますと、
高天原で乱暴をはたらいた弟のスサノオに恐れをなした姉のアマテラスは洞窟に隠れて入口を岩で塞いでしまい、この世が真っ暗になるとともにトラブルが次々に起こるようになりました。困った神々は河原に集まりオモイカネを議長役として相談し、盛大なお祭りをやってアマテラスを外におびき出すことにしました。こまごまとした準備の後にお祭りが始まりました。このお祭りで活躍したのがアマノウズメという女神でお色気たっぷりのダンスを披露して男神達がおおいに受けて盛り上がり、それにつられてアマテラスもついつい入口を塞いでいた岩を少し開けました。
少し開け放たれた隙間には八咫鏡が置かれており、鏡に映った自分の姿を見てアマテラスは自分と同じような高貴な神がいると錯覚して驚いてスキができます。そこでアメノタヂカラオという怪力の神がアマテラスの腕をつかんで外に引き出すことに成功し、この世に再び明かりが戻ったという神話です。めでたしめでたし。

〇岩戸隠れは冬至だ。初日の出を拝むのはその名残かも
この岩戸隠れ神話の解釈としては、日食で地上が暗くなったことを表現しているのだという説が一般的なようです。
でも何かおかしい気がします。だって日食というはそれほど長い時間続くものではないのですからその間は恐れをなすでしょうけど、すぐにまた明るくなれば「? 今のは何だったんだろう?」という程度で済んでしまうと思うのです。特にものを忘れやすい気質の日本人の場合(今の時期、「忘年会」なんていう風習もありますよね)には、しばらくすればほとんど記憶のかなたに飛んで行ってしまうと思うのです。
それに、日食のきわめて短い時間の間にトラブルが次々に起こるとか、神々が集まって相談をするとか、いろいろな準備をして祭りを開催するとかは実質的にありえないはずです。暗くなるというのはもっと長い時間のはずです。
日食が起きる場所というのもかなり狭い範囲ですから、古事記に書かれるような大事件とはみなされない気がします。
私は、岩戸隠れとは秋から冬になって次第に日が短くなることを不安に感じて、冬至のころに太陽を元気づけたり、あるいは冬至後に日が長くなり始めたことを祝うイベントを行ったことに由来しているように思うのです。
それならば、世界各地の行事と整合性もあるし、日食とは違って毎年のことであって、古代人にとってはとても重要なことであるからこそ古事記にも記されたのだと考えるのです。
「そうに違いない、大発見だ!」と思ったけど、どうやら「岩戸隠れ=冬至」という説はすでに存在しているようです…
そもそも「初日の出を拝む」という風習自体がアマテラスをおびき出す祭りに由来しているのかもしれません。「眺める」ではなくて「拝む」というくらいですから太陽信仰の一形態であることは確かでしょう。
仏教は仏像に向かって拝むけど、アマテラスを最高神とする太陽信仰である神道が拝む対照は本来は太陽であるはずですし、それを最も熱心に(必死に?)祭祀するのは冬至のころであって、その重要なイベントは間接的・抽象的かもしれないけど古事記に記されていて当然だと考えます。それが岩戸隠れ伝説なのでは?

私は、天津神の住む高天原が茨城県鹿島・神栖地方であったのではないかという東実説を以前のブログで紹介しました。この時期、神道つまり太陽信仰の古代の神々・人々は鹿島灘に出てはるかかなた太平洋に昇る朝日に向かって祈ったり祝ったりしたのではないかなぁ。そして、水平線から太陽が昇ると海面に写る太陽を見てそれを「八咫鏡」と考えたということはないでしょうか。
また、神々が集まって相談をした河原というのは利根川のことか、あるいは「河原」というのは「水辺」という意味であって鹿島灘のことだったかも。
さらに、日が短い時期には東の朝日に向かって祈るだけでは足りないと心配になり、太陽がもっともっと高く登ってもらえるように、南天の太陽に近づけるイメージのある南九州高地で祭祀を行うべく「天孫降臨」として高千穂に進出した、ということではないでしょうか。

今回は、ほとんど想像だけで根拠の薄い話でした。(^^;

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日本神話雑感2;アマテラスとスサノオ誕生の地「日向」とはどこか?

アマテラスとスサノオ誕生の地「日向」とはどこか?

日向の位置
地図の説明は後述します。

みなさんこんにちは。
突然ですが、日本は立派な空母を2隻保有していることを知っていますか? これを建造をした石川島播磨重工に勤めている私の友人でも知らなかったのですが…
一応「護衛艦」という名称で艦載機はヘリコプターだけとなっていますが、見た目は威風堂々たる空母ですし、第二次大戦中の空母の中型艦くらいの規模はあるらしいです。しかもこのうちの一隻(二番艦)は垂直離陸型戦闘機の搭載・運用も可能なスペックになっているようです。ステルス機で次期主力支援戦闘機に選定されたF35Aは通常離陸型ですが、その派生機で垂直離陸型のF35Bであれば搭載可能みたいです。あきらかにF35Bの搭載を意識した設計に見受けます。
日本がこのような空母を保有することについてはお金もかかるし右傾化とか軍国主義復活とかの批判もあるかと思いますが、隣国の韓国や中国の方が先行して空母の配備を進めているし、それらの母港は対日本を念頭に置いているとしか思えない場所で運用していますので、日本も後追い的に対向して配備せざるを得ないと思います。
さて、また余談から入りましたが、その2隻の空母の艦名が「ひゅうが」と「いずも」という古事記ゆかりの名前なのです。日本を守る艦としてふさわしいし、なんとも粋なネーミングではないでしょうか。

〇アマテラスとスサノオ誕生の地「日向」とはどこか?
この日本を最初に作るために地上に遣わされたのはイザナギとイザナミの夫婦神でしたが、イザナミは国つくりの途中で亡くなってしまいます。嘆き悲しんだイザナギは黄泉の国へ死んだ妻を取り戻しに行きますが、ちょっとしたトラブルから夫婦喧嘩をして地上に逃げ帰ってきます。地上に戻ったイザナギは身に付いた穢れを祓うために禊を行います。このとき生まれたのが姉のアマテラスと弟のスサノオで、その場所こそが「日向」であったといいます。イザナギは、アマテラスには天をスサノオには海を統治するように指示します。
さて、「日向」は古事記では「ヒムカ」と読むらしくその場所は不詳だということですが、その漢字表記から宮崎県の「日向(ヒュウガ)」と考えられているようです。妥当でもっともな説とも思われますが、ちょっと異論を提起したいと思います。
というのも、それから後のエピソードである天孫降臨ではアマテラスの孫であるニニギノミコトが地上統治のために九州の高千穂に降り立ったということになっていまして、日向(ヒュウガ)とは近すぎるからです。現在、高千穂も日向(ヒュウガ)も同じ宮崎県内です。
天孫降臨は、この地上を天皇の祖先が治める第一歩となった大事業でして古事記の中でももっとも重要なエピソードの一つと言っていいと思います。その重要な出来事が、元々アマテラスが生まれた日向(ヒュウガ)と同じ宮崎県内の高千穂だというのは何か不自然だし、「天孫降臨」と呼ぶには大げさな感じがします。少し頑張れば、子供でも自転車で日帰り往復できそうな距離ではないですか。
「天孫降臨」というからには、その場所は今まで天津神たちが全く足を踏み入れたことがないところだと思うのです。そうすると、「日向(ヒムカ)」は宮崎県からはずっと離れた場所でなくてはいけないでしょう。

冒頭の地図をもう一度見てください。
宮崎県の日向(ヒュウガ)は、昔は新婚旅行の定番地であったように、南国で太陽の昇る東の海に向かって広い日南海岸が広がり、いかにも「日に向かう」という名前がピッタリ合う景勝地です。だからこそ「日向」と名づけられたのでしょう。
ところで、このような太陽の昇る東の海に向かって広い海岸が広がる場所で、「日向」と呼んでもよさそうなところが日本にもう一か所あります。地図を見れば明らかだと思いますが、東の鹿島灘です。
古代の日本人にとっては鹿島灘や神栖市は東の果ての地であって、太陽が最も早く昇る場所であり「日向(ヒムカ)」と呼ぶにふさわしかったと思うのです。
この地こそイザナギが禊を行ってアマテラスとスサノオが生まれた土地「日向(ヒムカ)」であったとは考えられないでしょうか?
私は、天津神の住む高天原が茨城県鹿島・神栖地方であったのではないかという説を前回のブログで紹介しました。
アマテラスとスサノオが生まれた「日向(ヒムカ)」が鹿島灘であったとすると、その場所がそのまま高天原として天津神が住むようになったことになり、その後の話が無理なく非常にスムーズにつながるのです。
後の「天孫降臨」の地としてそれまで統治をしたことのない遠い宮崎県高千穂を選定したことも納得できます。きわめて遠い地を新たに統治しようとしたからこそ「国譲り」「天孫降臨」という大事業として古事記に記されることになったのではないでしょうか。

また、イザナギは、アマテラスには高天原を、スサノオには海原を統治するように言い渡します。でもなぜ、「天と地」ではなくて「天と海」だったのでしょうか? 天とはつまり高天原なのですが、前回のブログで紹介した東実説では、高天原は茨城県だったそうです。つまり、鹿島灘に立ってみれば、それは西側ということになります。一方、「海」とはまぎれもなく太平洋でしょうから、「天と海」という区分けは鹿島灘からみれば「西側の陸の世界と東側の海の世界」ということになり、高貴な2神にとって大変バランスのとれた分け方と言えそうです。(この他にも夜を統治するツクヨミという神様がいましたが、この神様はちょっと影が薄い存在なのでここでは触れませんでした。)
北方及び北東に人(神様?)の住むのに適した陸地がたくさんある宮崎県日向(ヒュウガ)では、こういうバランスのよい区分けはできなかったと思います。

さらに、古事記では似たような話が何度か繰り返される特徴がありますが、天孫降臨の後に登場する山幸彦と海幸彦は、高天原(茨城県)を統治したアマテラスと海原(太平洋)を統治したスサノオに対比させることもできそうです。

今回も素人の想像を楽しく書かせてもらいましたが、前回の話の展開に較べると証拠や根拠やらが弱いかもしれません。あくまでも素人の夢想ということで大目にみてやってください。

ということで、日本の空母の艦名は「ひゅうが」ではなくて「ひむか」に改称しましょう!?

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日本神話雑感1;国譲り伝説について

神々の住む高天原は茨城県だった
今日書き留めようと思うトピックは太古の神話の話でして、古事記に記されている国譲りの伝説その他についてです。まず、興味をもっていただくため漠然と下の図を眺めてください。
下日本地図(猿田彦神社)
この地図はあとでもう一度登場させます。

先日に読んだ本で国譲りについて非常に大胆で面白い仮説があったので、私の意見も加えながら紹介したいと思います。
このブログを読んでくれている方は古事記を読んだことはあるでしょうか? 私の身の回りでは古事記を読んだという人は見当たらないですし、結果として古事記の詳しい内容までは知らないようです。普通はイザナギとイザナミの国つくり、アマテラス(天照大神)の岩隠れ、スサノオのヤマタノオロチ退治、因幡の白兎、ヤマトタケルくらいは知っているでしょうけど、国譲り伝説、天孫降臨、コノハナサクヤヒメとイワナガヒメ、山幸彦と海幸彦、ヤマトタケルの名前の由来、神功皇后の新羅征討などとなると知っている人はほとんどいないようです。古事記は日本人の原点だと思うし、実際に読んでみればとても面白いので是非一度手にとってみてもらいたいと思います。入門書や子供向けの薄いダイジェスト版またはマンガ版でも十分だと思います。
古事記研究家の竹田恒泰氏は、少し極端に「古事記を読んでいない日本人は日本人じゃない」とまで述べています。
「そんなこと言っても、実際の「日本史」ならともかく、神話なんてどうせ作り話なんだから読む価値はないヨ」、という合理的な人も多いかもしれません。しかしながら、最近の調査・研究では古事記の内容は必ずしもフィクションとは言い切れず、相当程度に史実に基づいているのではないかと見直されてきているようです。特に、哲学者で歴史家の梅原猛氏は、古事記をフィクションとして批判してきた従来の自説を完全撤回し、最近は古事記が史実に基づく重要な歴史書であると精力的な主張を展開されています。自説撤回は勇気がいることだったでしょうね。
なぜ、現代の我々は古事記に対する興味をなくしてしまったのでしょうか? それは戦後のGHQの政策として古事記を発禁図書にしていたことが大きく影響していると思います。「自らの神話を子供達に教えない民族は例外なく滅びる」という法則があるそうでして、今の日本の状況が心配です。

〇古事記の国譲り伝説と天孫降臨の基礎知識について
余談はこれくらいにして、まず話の前提としての古事記の国譲り伝説と天孫降臨について簡単に紹介します。すでにご存知の方はこの段落は読み飛ばしてください。
古事記では、この世は「天」の高天原と「地」の葦原中国があって、アマテラスなど天の天津神たちが高天原を治め、大国主神をトップとする地の国津神たちが葦原中国を治めていました。大国主神は因幡の白兎の伝説で瀕死のうさぎを助けた神です。
しかしながら、アマテラスなど天津神は、地の葦原中国も自分たち天津神が治めるべきであると考えるようになり、その交渉のために高天原から葦原中国に遣わされたのがタケミカヅチノカミでした。それ以前にも二柱の神が遣わされていたのですが両者とも大国主神に懐柔されてしまったので、三度目に遣わされる使者は武勇に優れたタケミカヅチノカミが選ばれたのでした。タケミカヅチノカミは出雲大社のすぐ西にある稲佐の浜に降り立ち浜に剣を逆さまに突き立ててその切っ先の上に胡坐をかいて、大国主神に葦原中国を差し出すように迫ります。大国主神は従前の使いの神のようにはタケミカヅチノカミを懐柔することはできないと悟ります。でも何とか口実を作って時間稼ぎをしたく、自分の息子の二柱の神に相談したいと申し出ますが、これらの息子たちも結局タケミカヅチノカミにはかなわず、息子の一方タケミナカタノカミ(健御名方神)は長野県の諏訪まで逃げ込みます。諏訪大社はタケミナカタノカミを祀っています。なぜか諏訪大社の公式HPには明記されていないみたいですが。
こうして大国主神は恭順することになりました。大国主神は、その代り隠居をするための神殿が欲しいと願い出てこれが許されて建造されたのが出雲大社です。ここまでが国譲り伝説です。
大国主神が国譲りに同意したことで、アマテラスは自らの孫(天孫)であるニニギノミコトを地上の支配のために遣わすことにしてアメノウズメという女神を含む数名の天津神を供につけて送り出したのでした。アメノウズメは岩戸の陰に隠れてしまったアマテラスを外におびきだすときにも活躍をした露出狂癖のあるちょっとエッチで陽気な女神です。
ニニギノミコトの一行が地上へ向けて進むと道が幾本にも分かれている八街(ヤチマタ)という分岐路に差し掛かると、そこにとても大きくて鼻が長い異形の国津神が仁王立ちしてこちらを凝視していました。不信と不安にかられたニニギノミコトはアメノウズメに彼が何者か問いただしてくるように指示します。
勇気あるアメノウズメの問いかけに対して、その国津神は自分はサルタビコ(猿田彦)といい天孫が中津国に降りてこられることを知って道案内をかってでてここまで迎えに来たのだと答えます。ニニギノミコトはサルタビコの案内によって先へ進みます。大柄なサルタビコは案内役兼護衛役だったのかもしれません。サルタビコは天狗のモデルになった神であるとも言われてます。
そしてニニギノミコトが地上に降り立ったのは九州の高千穂でした。これが天孫降臨です。ニニギノミコトはこの地を拠点に地上支配を進めていくことになったのです。
それからまたいくつもの物語が続き、ニニギノミコトのひ孫が初代神武天皇に即位するのです。

〇鹿島神宮周辺の地理
ここで鹿島神宮周辺の地理を確認しておきましょう。
鹿島神宮は鹿島アントラーズで有名な茨城県南部にある鹿島市(正式には平成7年に鹿嶋市に改称されてますが、ここでは「鹿島市」で統一表記します)の有名な神社です。その南隣で日本最大の利根川をはさんで銚子に面しているのが神栖市(平成17年に波崎町を併合してます)でして、北海道を除けば銚子の犬吠埼とともに日本で最も東端に位置しています。ある意味地の果てとも言えるし、季節にもよるようですが北海道東端よりも早くに朝日が昇る特殊な土地なのです。古代の人たちは世界中で太陽に最もちかい土地と考えていたかもしれません。
鹿島市の東側には長大な鹿島灘が広がり、西側には二つの巨大な湖、つまり北浦と霞ヶ浦がほぼ並行して横たわっており、鹿島市は海と湖に挟まれた意外に南北に細長い地形です。
利根川を渡った対岸の千葉県香取市には香取神宮があり、さらに銚子からJR総武本線に沿って千葉方面へ向かうと途中に猿田町及び八街市があります。以下の稿を読む前にグーグルマップか何かで鹿島市周辺の地図をちょっとでも眺めてもらえると話のイメージがつかみやすいのではないかと思います。

〇ここからが本題
さて、ここからが本題です。先日読んだ「鹿島神宮」という少し古い本に古事記と国譲り伝説についてとても面白い大胆な解釈が記されていたのでここで紹介させていただき、さらに私の意見を補足したいと思います。著者の東実氏は鹿島神宮の元宮司ですが残念ながらすでに亡くなっているようです。
書籍「鹿島神宮」の前半は鹿島神宮が祀るタケミカヅチノカミ(建御雷神)を中心とした神話の話、鹿島という土地、さらにはそこから古代社会を大胆に読み解きます。後半は鹿島神宮の歴史や祭事などの紹介です。タケミカヅチノカミは国譲り伝説で活躍をした神です。
さて、鹿島の土地は昔は細長い半島の先の土地で千葉方面から見ると「島」に見えて、「香島」と呼ばれていたそうです(養老7年(723年)鹿島に改称)。つまり、利根川をはさんで対称的に「香島」という地名と「香取」という地名があったのですね。「香島」は古代にはカグシマと発音されていたらしいです。
「神宮」と名の付く神社は今でこそ多いけど昔は鹿島神宮、香取神宮及び伊勢神宮の3つだけであり、鹿島神宮と香取神宮は利根川を隔てて近い場所にあり結びつきが強いらしい。
また、いくつかのHPによれば鹿島神宮、香取神宮、伊勢神宮、明治神宮、皇居、富士山、高千穂などを地図上で結ぶと不思議な直線関係やら規則的な三角形ができるそうなので、興味ある方は調べてみてください。
著者によれば、鹿島神宮がタケミカヅチノカミを祀っているのは、そこがタケミカヅチノカミの拠点であり実際に住んでいたからであり、神社の構成も(何度か建て替えているが)住居を思わせるようです。古事記ではなくて日本書紀に記されていますが、タケミカヅチノカミは国譲りの談判へ出雲へ行くのに先立って、
「地上の中津国の平定の前に、天に悪い神がいてその名をアメノカガセオ(天香香背男、天津甕星)といます。大国主神のところへ出発する前に背後の愁いを排除しておくべく、まずこの神を平定しましょう。」と提案します。
このアメノカガセオは、常陸の大甕(現在の日立市大甕)を根拠地としていて、タケミカヅチノカミは静(茨城県那珂郡瓜連町静(しず))に陣をかまえてこの悪しき神を討伐したそうです。
注目するべきは、アメノカガセオは悪しき神ではあっても国津神ではなくて天津神なのです。タケミカヅチノカミもアメノカガセオも天津神であって高天原に住んでいるはずなのに、どうやら香島(鹿島)や日立にいたのです。
いよいよ今回のハイライトです。天津神のタケミカヅチノカミがなぜ香島に住んでいたかについて、著者は大胆な仮説を立てています。古事記及び日本書紀では、この世は「天」の高天原と「地」の葦原中国があって、アマテラスなど天津神が高天原を治め、大国主神など国津神が葦原中国を治めていたが、葦原中国も天の神が治めるべきであるとして高天原から葦原中国に交渉に遣わされたのがタケミカヅチノカミでした。
大国主神が治める葦原中国が出雲などを中心とした近畿、中国圏を指していることは明かであるが、著者によればこれに対して高天原は東日本圏特に常陸国(現在の茨城県)であったのではないかといいます。真偽は分かりませんが、とても面白い解釈だと思いませんか。高天原(タカアマガハラ)の天(アマ)と海(ウミ)は近い関係にあって(水平線で両者は区別がつきにくいこともある)東の果てでその先に海が広がる土地を「高海原」または「高天原」と呼んでもおかしくないし、実際に茨城県内には3箇所に「高天原」という地名が現存しているのです。その一箇所は鹿島神宮のすぐ近くです。
茨城県の筑波山には2つの峰があり男山と女山と呼ばれているが、これはイザナギとイザナミを象徴していると思われるといいます。筑波山中腹にも「高天原」という場所があるようです。
また、大国主神が国譲りを認めた後に「天孫降臨」があったのは出雲などの中国地方ではなくて九州の高千穂であったのは、
「九州に天降る(あまくだる)のに必要なのは出雲の地ではなく瀬戸内海を通行するのに山陽近畿を治める大国主神命そのものの平定が必要だったとも考えられるのであり、前に述べたように、常陸は高天原に近いことから常陸そのものがその天降りの出発点になったために平定の必要があったとも考えられるのである。」(76頁)と著者は述べています。
高千穂に近い鹿児島(カゴシマ)は香島(カグシマ)と語源を同じにしている可能性があるといいます。

〇以下、私見などを
以上、主に「鹿島神宮」に書かれている内容を紹介してきました。これからは、さらに私の意見、感想、調べたことなどをつらつらと述べてみたいと思います。あくまで素人の気ままで無責任なものですが。

〇神栖市について
鹿島神宮は鹿島市にありますが、その南隣に位置して銚子とは利根川を挟んで対岸にあるのが神栖市です。「栖」は「住」の意味であって神の住む土地という意味なのではないでしょうか。なんだかあまりにもダイレクトなネーミングであって補足説明の余地もないようもな気がしますが、どうでしょうか?
この土地は南には日本最大の利根川が流れ、東は太平洋でひたすら海が広がり、西は北浦と霞ヶ浦が長く横たわっており、北方だけが陸続きになっています。その北方にはタケミカヅチノカミが守る鹿島神宮があり、鉄壁防御の要塞にも思えます。利根川を挟んだ香取市には西方への前線基地として香取神宮が設けられた可能性はないでしょうか。
鹿島灘は太平洋に面して長大に続いており、あたかも神栖市と鹿島市だけで東の海から登る朝日を独占できるかのような素晴らしい土地です。古事記に代表される日本神道は、太陽神であるアマテラスを最高神とする太陽信仰の自然崇拝宗教と言われています。そのアマテラスたち天津神が住む場所としてふさわしいのは、日本で朝日が最も早く登る東端の地に他ならないのではないでしょうか
そう考えると、やはりこの土地がアマテラスたち天津神の住む高天原だったのかもしれません。そして、長大な利根川こそが高天原と葦原中国との第一次境界線であったというのは考えすぎでしょうか。

〇八街市について
鹿島市から陸路(東海道?)を西日本へ行く場合は、昔も今もまずは千葉市方面に向かうことになると思いますが、その途中にあるのが八街市です。
八街(ヤチマタ)、これはつまり古事記でニニギノミコト一行が案内役のサルタビコにであった場所と同じ名前なのです。鹿島あたりをを出発してから比較的すぐの場所で、これから長い道中を安全に旅して行くのに是非とも案内役が欲しくなる絶好のポイントです。偶然にしてはあまりにもドンピシャではないでしょうか? 
ネットで調べた範囲では、「八街市」という市名が決まったのはそれほど古いことではないようなのですが、その決定プロセスははっきりしていないようです。古事記の伝説に由来していたと考えると面白いですね。

〇常陸国風土記における香島郡の記述について
常陸国風土記という古い書物が幸いにも現在まで伝わっており、その中に香島郡に関する記述があります。香島郡の項の冒頭近くに香島という土地のなりたちについて書かれています。何かすごいことが書かれているようなので、ご参考に秋本吉徳氏の現代語訳著より紹介したいと思います。
「清、すなわち天となるべき気と、濁、すなわち地となるべき気とがまだ入り混っていて天地がひらけ始めるより以前に、神々たる天神(中略)が八百万の神々を高天の原にお集めになられた。その時、祖神のおっしゃることには、「今より私の孫の命が統治するであろう豊葦原の水穂の国ぞ」と仰せられた。(こうして)高天の原からお降りになって来られた大神は、その御名を香島の天の大神ととなえる。天、すなわち高天の原では日の香島の宮と名づけ、地、すなわちこの常陸の国では、豊香島の宮と名づける。」

〇掛川市の猿田彦(サルタビコ)神社と銚子市猿田町と他について
これまでの仮説に基づけば、ニニギノミコト一行はサルタビコの案内によって八街、千葉を経由して東海道あるいは海沿いに西へ向かったと考えるのが自然でしょう。
ところで、私は以前に掛川に行ったことがあります。そのときたまたま比較的大きそうな神社を見つけ、何かビビッと感じるものがありました。本殿は見えずに入口の鳥居と、参道の石段と、それを囲む森だけしか確認できませんし、特に整備されてるわけでもなく駐車場すら見当たりませんが、荘厳でおごそかな雰囲気を受けます。なぜだか妙に気になってしまいました。近くまで寄って案内板を見ると、「猿田彦神社」と書いてあるではないですか。そのときは、なぜ東海道沿いのこの地にあのサルタビコが祀られているのか、とずいぶん驚いてしまいました。
地元の人にその神社の由来を聞いてみましたが、「分からない」、、、 とのことでした。
気になりますので帰ってからネットで調べてみると面白いことが判明しました。サルタビコを祀っている神社はいくつかあって、それを列挙すると以下のようになります。もっとあるかもしれませんが。
掛川市には3箇所もありました。
猿田神社(千葉県銚子市猿田町)
猿田彦神社(静岡県掛川市上佐束字)
猿田彦神社(静岡県掛川市山崎)
猿田彦神社(静岡県掛川市幡鎌)
猿田彦神社(三重県伊勢市)
椿大神社(三重県鈴鹿市)
都波岐神社(三重県鈴鹿市)
白鬚神社(滋賀県高島市)
庚申社(福岡県直方市)
猿田彦神社(福岡県福岡市)
荒立神社(宮崎県西臼杵郡高千穂町)
なんと、鹿島地方から天孫降臨の高千穂までの標準的・常識的と考えられるルートにほぼ並んでいるではないですか。つまり、これがサルタビコがニニギノミコト一行を案内した行路であったとは考えられないでしょうか?
簡単に地図上に概略位置をプロットしてみましたので参考にしてください。
下日本地図(猿田彦神社)
神栖の対岸の銚子市に猿田町という地名と猿田神社があるのも驚きました。知りませんでした。サルタビコはあるいはそこまで迎えに来たのでしょうか。地図を見直すとこの猿田町と前記の八街市はともに総武本線沿いで千葉方面へ抜けるには良いルートに思えます。もちろん当時はJRは存在しないわけですが、路線が敷設されるルートというのは人間でも(神様でも?)通りやすいことでしょう。サルタビコは本当に日本中に土地勘があったのかもしれません。
少し気になるのはそれまで大国主神が治めていたと考えられる中国地方には一つも見当たらないことです。もしかしたら、大国主神との無用のトラブルを避けるため大事をとって瀬戸内海航路を選んだのかもしれないですね。これもサルタビコの判断でしょうか?
古事記の中ではサルタビコはあまり登場しないのですが、本当は天孫降臨の長い旅路において案内役、護衛役さらには参謀のような役割を兼ねた重要な神様であったような気がしてきました。
なお、サルタビコは最後に不可解な死に方をしていますが、今回はそこまで触れないことにします。現在、サルタビコは道案内、旅の神として信仰されているようです。
ところで、私は後述するように天孫降臨の場所は霧島連邦の高千穂峰だと考えています。サルタビコを祀る荒立神社は、なぜその最終目的地の高千穂峰ではなくて少し手前の宮崎県西臼杵郡高千穂町にあるのでしょうか? 全く勝手な想像ですが、国津神であるサルタビコは天津神の最終目的地である高千穂峰まで行くことは遠慮して、自分の役割は終わったと直前の荒立神社あたりで潔く身を引いたのではないでしょうか。なぜなら、そもそも旅の出発時においても、サルタビコは出発地の鹿島までは出向かずにすこし南の八街で一行を出迎えていたではないですか。天津神の支配する鹿島及び神栖に足を踏み入れることをはばかったからだと思います。そうすると、逆に最終目的地であり天津神で天孫のニニギノミコトの活動拠点となる高千穂峰にまで同行するのは僭越であると判断するのが自然ではないでしょうか。大国主神が直前まで支配していた中国地方は通り過ぎているので、もうあとは安全と考えてニニギノミコトに暇を申し出たように思えるのです。

あるいは、ニニギノミコトは一度は高千穂峰まで行ったものの、そのころ南九州に住んでいたといわれる隼人民族の勢力がつよいために高千穂町まで少し引き返したということもあるでしょうか。

〇高千穂と鹿児島について
ニニギノミコトは「天孫降臨」といって九州南部の高千穂に降り立ったことになっています。この「高千穂」の場所としては、前記の荒立神社もある九州中部にある宮崎県西臼杵郡高千穂町であるとする説と、九州南部にある霧島連峰の高千穂峰であるとする二説に分かれているようです。私は後者の説をとりますのでその理由を以下に述べます。
日本地図全体を見て気づいたことがあります。朝日に最も近い東方の果て鹿島及び神栖の土地は天津神がすでに抑えてあります。そうすると、その次に太陽信仰の神々・人々が抑えたいと考えるのはどこでしょうか? 太陽が最も天高く登る南方の果て九州南部に着目すると思うのです。
また、鹿島と神栖では朝日に向かってできるだけ東の方がありがたみがあると思うのですが、九州南部までくれば最南端へ行くよりもある程度標高の高い方が太陽に近づけるイメージがあると思うのです。低緯度の地方では南北に多少移動しても太陽の登る高さはあまり変わらなくなります。そこで、九州南部でしかもある程度標高が高い土地として高千穂峰(1574m)へ向かったと考えてはどうでしょうか。
さらに南の大隅半島の高隅山(1237m)では若干標高が低くて落選したのかもしれません。高千穂峰は霧島連峰第二の高さで最高峰の韓国岳(1700m)よりは低いのですが… 高千穂峰の高さで十分と判断されたのかもしれません。
そして、天津神の出身地である東の果てで朝日に向かって海が永遠に広がっている土地を香島(カグシマ)と呼んでいたことから、同じように南の果てで太陽が最も高く登る南方向に海が永遠に広がっている土地を似た名前の鹿児島(カゴシマ)と名付けたような気がするのです。
高千穂峰の頂上にはニニギノミコトが逆向きに突き立てたといわれる剣(天逆鉾)が平成の現在も屹立してますので、どこかのHPで画像を見てください。タケミカヅチノカミが大国主神との談判時に稲佐の浜で逆向きに立てて切っ先に胡坐をかいたという剣を彷彿させます。なんでも坂本龍馬はこれを引き抜いてしまったのだとか…

〇静神社について
タケミカヅツノカミがアメノカガセオを討伐するときに拠点としたのは静という場所でした。静には静神社が現存しており、そのHPによれば鹿島神宮及び香取神宮との結びつきが極めて強いようで、タケミカヅチノカミとの縁が感じ取れます。この静神社の周辺には「鹿島」という姓が多いようです。
静神社のHPから抜粋します。
「静神社は、かって、東国の三守護神として鹿島神宮、香取神宮、静神社として崇拝されてきました。延喜式名神名帳(927年)にも、鹿島神宮などとともに、「名神大」と記され豊臣家から社領として、150石が寄進され、徳川家からも同額の朱印が付されたいます。
鹿島神宮との関わりは古くからあり、常陸一ノ宮、二ノ宮と並び称されているばかりではなく、鹿島神宮の境内に高房社として、静神社が祀られ、拝殿にお参りする前に高房社にお参入りするほどです。また、奥宮の建立に際して、静神社の木が用いられ、海を渡り、鹿島の下津(おりつ)の港に運ばれ、海側から鹿島神宮に運ばれたといいます。」

〇鹿について
古代には「香島」と表記されていた土地は「鹿島」と改称されました。なぜ「鹿」なのでしょうか? これについては「鹿と鳥の文化史」(平林章仁著)に記載があったので抜粋紹介します。
「常陸国鹿島郡(茨城県鹿島町)に鎮座する延喜式内名神大社の鹿島神宮の鹿は、古くから神鹿、神使として崇敬され、「香島」を「鹿島」に改めたのもこの神鹿との関係にもとづくという。また、神護景雲2年(678)に鹿島の神を平城京に歓請して春日大社を創祠する際、神を白鹿の背に乗せて遷座したと伝えられる。今日、内外の観光客に親しまれている「奈良の鹿」の起源をなすものであるが、現在、鹿島神宮にも50頭ばかりの神鹿がいる。この鹿島神宮周辺は水郷としても古来著名な地であるが、昭和33年以降で台風で二度ほど鹿園の柵がこわれて鹿が逃げ出し、北浦湖(幅約1キロ)を泳いでいるところを捕捉したこがあるという。」

〇中国地方の地名について
鳥取県、島根県、広島県、山口県、岡山県は「中国地方」と呼ばれていますけど、なぜですか? 葦原中国が語源ではないのでしょうか?
また、島根県には島根半島で出雲のすぐ近くに日本海側に鹿島という地名があります。原発の町です。もしかすると、タケミカヅチノカミは国譲りの談判時にこの地に寄ったのでしょうか。
また、国譲りの談判が行われた稲佐の浜のやや南西側には神西(ジンザイ)という地名があります。島根半島の付け根部分です。読みは違うけど漢字では茨城県の神栖市とよく似ていて気になります。島根半島の鹿島や神西は、茨城南部の鹿島や神栖という地名に符号しているようにも思えます。

〇稲佐の浜について
さて、これまでは鹿島、神栖など茨城県方面が高天原であるという「鹿島神宮」の著者の仮説に沿いながら勝手な想像で話を進めてきたのですが、最後になって全く別の考えも述べてみます。何をいまさら、、、という感じを受けるかもしれませんが。
タケミカヅチノカミが大国主神やその息子たちに対して国譲りの談判を行ったのは出雲の西側の稲佐の浜でした。
私はこの稲佐の浜を訪れる機会がありました。それほど広くはないですけど砂地の海水浴場で、海岸から数十メートルのところに険しい小島、というか大きな岩があります。弁天島です。おそらくこの小島がタケミカヅチノカミが胡坐をかいて座ったという剣のモデルになっているのでしょう。出雲大社はすぐ近くです。
砂浜で思ったのはタケミカヅチノカミはなぜここを談判の場所にしたのだろうか、ということです。現地に実際立って考えてみると、東方の茨城方面から来るのなら陸路でしょうから島根半島の内陸側または東側に到着するはずなのに、西側のそれも海岸で談判というのはなんとも不自然に感じるのです。
それに、タケミカヅチノカミに刃向って結局逃げ出してしまったタケミナカタノカミは諏訪へ向かっているのです。諏訪と言えばちょうど茨城へ向かう方角であり、相手の本拠地へ向かって突っ込んでいくようなもので逃避にはなりません。ずいぶんと逃げたもので、茨城には結構近くなってしまっていて不可思議です。
地図を添付したので見てください。稲佐の浜は山陰地方から突き出た島根半島の西側でやや弓なりでフック形状に湾曲した海岸線の最奥部です。

出雲・釜山

そうです。韓国から近いし、朝鮮半島南部の釜山や対馬あたりから船出して有名な対馬海流に乗ればちょうど島根半島の弓なりでフック形状の西側面にひっかかることができて航海目的地としてこれ以上ないうってつけの場所なのです。多少うまく舵を取りあるいは風を使えば、ほとんどなにもせずに半自動的に流れ着くのが他でもなく、島根半島における西側面最奥部である稲佐の浜だと思います。
現在でも北朝鮮の難民が小舟で海流に乗って能登半島に流れ着くようなことがありますけど、あれと似た要領で島根半島に来ることもできるはずなのです。
どうしてもタケミカヅチノカミは西から海路で来たように感じるし、それならばタケミナカタノカミが東の諏訪へ向かってはるばる逃げたというのも納得できます。洋上から来た相手は船舶技術に優れているであろうから海沿いに逃げるのは危険であって山側の方がより安全と考えて、できる限り安全な場所を選定すればその行く先は日本で最も険しい山岳地帯である中央アルプス、つまり諏訪方面になるのではないでしょうか。また、朝鮮半島には高い山がないことから、相手は急峻な山には不慣れであろうと踏んだのかもしれません。
大国主神親子に対するタケミカヅチノカミの圧倒的な力というのは大陸文明を背景にしたもので、もしかすると高天原というのは朝鮮半島や大陸側に存在していた文明のことなのでしょうか。
結局は分かりません。分からないところが古代史の面白さなのかもしれないですね。
邪馬台国の場所も近畿説と九州説で決着がついていませんが、それよりも古い神代の高天原の場所など特定するのは容易なことではないでしょう。やはり、天津神の出身地は文字通り「天」とかあるいはこの世とは別次元のような場所と考えておいた方がロマンがあるかもしれません。
たわごとが少し長くなってしまいました。当然に反論、異論も多いことと思いますが素人のお遊びとしておゆるしください。

最後に、「鹿島神宮」から著者の東実氏の意見を紹介して終わりにしたいと思います。
「神話を知らない人々は、日本の良さを知らない人々でもある。そして、今後日本がどのように世界に働きかけたらよいのかもまだ知ることのできない人々でもある。そこで著者は、この若いたくましい力を持った人々のために、今後日本が世界の平和のためにどのような役割を果たせばよいのかということを、神話を通じて考えてみたい」

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日本史雑感1;雪の法則

明日、12月14日は忠臣蔵の日ですね。300年も前の事件ですが平成の現代になっても、この時期には忠臣蔵のドラマやら演劇がよく行われています。今年はなんとハリウッド版もあるそうですね、
忠臣蔵の日にちなんで書き留めておきたいトピックがあります。
ちなみに、あとで忠臣蔵と並んで紹介する功山寺挙兵はあさって12月15日なんですね。

私は歴史関連の本が好きで司馬遼太郎などを多く読んでいます。司馬作品については「司馬史観」といって好意的でない人もいるようですが、読みやすくて歴史入門にはいいのではないでしょうか。
日本は長い歴史を持っていてなかなか全ての時代について深く理解するというのは大変なことことだと思いますが、それでもいろいろの時代について広く浅く興味を持ちながら本を選んで読んでいます。
今までにそれなりに歴史の本を読み続けてきて、あるときちょっとしたことに気づきました。それは、日本史では歴史の転換点となるような大きな出来事が幾度もありましたが、その中でもクーデター的な大事件が起きた日の天候は雪であることが多いのです。
私は、全く勝手にこのことを「雪の法則」と呼びたいと思います。
以下に私の気づいた例を挙げてみます。

1. 赤穂浪士の吉良邸討ち入り(いわゆる忠臣蔵)
元禄15年(1702年)12月14日深夜に大石内蔵助ら47名、いわゆる赤穂浪士が旧主浅野内匠頭の仇である吉良上野介の屋敷に討ち入り、吉良および家人を殺害した事件です。いわゆる忠臣蔵として有名ですが、この日は雪でした。
この事件は政治体制への影響はそれほど大きくなかったであろうしクーデターに分類するのは不適切かもしれないけど、社会的反響は大きくその後の日本人の精神的影響の大きさはいうまでもないでしょう。

2. 桜田門外の変
幕末期。幕府の大老の彦根藩主・井伊直弼は米国から通商条約の締結を迫られていました。現在ちょうど交渉中のTPPのようなものでしょうか。井伊は勅許を得ずに日米修好通商条約などの条約の調印に踏み切ります。このような幕府のやり方に反発した水戸藩士たちが安政7年3月3日(1860年3月24日)の早朝、桜田門近くで井伊一行を襲撃し、井伊を殺害したというのが桜田門外の変ですね。
当日は季節外れの大雪だったそうで、井伊の護衛の侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけていたので水戸藩士らの襲撃に対してすぐに応戦できず、暗殺は比較的簡単に成功してしまいました。雪が歴史を動かしたのかもしれません。
大老といえば今でいえば内閣総理大臣のようなポストでしょうからその井伊直弼が決して多くない人数に暗殺されてしまったことは衝撃的な事件であり、幕府の権威が失墜することになります。
また、井伊はある意味強い政治家で非常に強権的な政治を行って反幕派を抑え込んでいましたが、その彼が殺害されてしまったことは佐幕派にとっては大きな痛手であったことでしょう。
ときの政権のトップを抹殺してしまったこの事件はクーデターであったと言えると思います。
ところで、井伊直弼を殺害したこのグループはなぜほとんどが水戸藩士であったのでしょうか。水戸藩といえば徳川御三家のひとつであって最後まで幕府を擁護するべき立場に思えますよね。
幕末の討幕運動は尊皇攘夷という思想が元になっていましたが、これはいわゆる水戸学からきているようです。水戸学とはあの水戸光圀が編纂した大日本史が元になって発生した思想で、数百も存在していた藩よりも日本という国全体を尊重するべきで、その中心として天皇を敬うべきであるとする考えのようです。簡単に言えば国粋主義のようなものであって、実行グループは外国の干渉や圧力に屈した井伊直弼が許せなかったということなのでしょうね。水戸光圀がその生涯をかけた事業である大日本史が徳川幕府の崩壊の基礎的思想に発展してしまったということは歴史の皮肉というべきでしょうか。

3. 高杉晋作の功山寺挙兵
これも幕末期。第1次長州征伐で長州における反幕派が恭順派に粛清されてしまいました。それまで、反幕の急先鋒だった長州藩もこれでほぼ息の根を止められてしまったと多くの人は思ったはずです。ところが、文久4年(1864年)12月15日夜半、生き残った反幕派の過激な高杉晋作が伊藤博文らと極めて少人数で憤然決起し、そして恭順派に打ち勝ってしまいます。
一匹オオカミ的性格の高杉は手元に動員できる人数をもっていませんでしたが、伊藤博文は数十人の力士隊をひきいていました。このころの伊藤博文はほとんど高杉の徒弟のよう存在で高杉のいいなりに動いていたみたいです。
ので、この決起はほとんど高杉晋作という男一人の決心・決断で断行されたと言っていいでしょう。
このあまりに高杉らしい無謀といもいえる行動は功山寺挙兵というようですがこの日も雪が降っていたそうです。この反乱はあまり注目されていないようですけど幕末史における大きな分岐点となっていると思うのです。高杉のこの蛮勇ともいえる決起がなければ長州藩はそのまま歴史に埋もれてしまうだけの存在になり明治維新はずいぶん違った経緯をたどったであろうし、長州はその名を馳せることがなかった可能性があると思います。
討幕運動は長州と薩摩の二藩が中心になって行いましたが、この時期の薩摩藩はまだ少なくとも表向きは佐幕派で通っており、長州が挫折して歴史の表舞台から消え去ってしまったら薩摩藩としても簡単には反幕姿勢に転換し切れなかった可能性もあるのではないでしょうか。
私は、この高杉決起が長州藩内だけの話ではなくて、長視野的には全国で佐幕派と討幕派の勢いが逆転する潮目になった重要なターニングポイントだと考えています。

4. 西南戦争勃発
1871年の廃藩置県で特権を失った旧武士階級の不満が爆発して明治政府に対する反乱がいくつか発生しますが、1877年(明治10年)の西南戦争はその中でも最大のもので、旧薩摩藩士の西郷隆盛、桐野利秋らが率いて起こしました。この反乱軍は同じく薩摩出身の大久保利通をトップとする明治政府軍に敗退しました。この戦争により武士の時代が完全に終焉を告げることになるとともに、明治維新がようやく完了したと言えるでしょう。歴史の節目となった事件です。
薩摩の反乱軍の薩摩出発日は2月15日で、この日は60年ぶりといわれる大雪でした。2月とは言え南国薩摩で降った大雪は武士の世の終焉を暗示していたように思えてなりません
この事件は「戦争」という名前が示すように、奇襲的な要素はなくてクーデターというより規模が大きくてある意味内戦のようなものでしょうか。

ところで、明治維新では大政奉還がなされて明治政府が成立した後にも大きな内戦がいくつか発生します。まずは前期ともいえる戊辰戦争ですが、これは鳥羽・伏見の戦いから始まり上野戦争、宇都宮戦争、北越戦争、会津戦争と次第に北上する傾向があり、最後は日本北端に近い北海道の箱館戦争で終結します。これに対して、西南戦争を含めた後期の士族の内乱は佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱などがあってから南下して日本南端に近い鹿児島の西南戦争で終結します。前期の戊辰戦争が北上傾向であるのに対して、後期の士族の反乱が南下傾向を示しているのは対称的で面白いと思います。

5. 2.26事件
1936年(昭和11年)2月26日に陸軍青年将校らが起こしたクーデターです。クーデター自体は失敗に終わって首謀将校らは処分されることになりましたが、高橋是清大臣らが殺害されて、以後は文民の大臣が軍部を恐れるようになって軍部の力が一層台頭していき、日本が軍国主義に突き進んでいく契機になったと言われています。
2.26事件は日本史における典型的クーデターでしたが、この日も大雪でした。2月の東京なら雪が降ってもなんら不思議はないのですが、この日の大雪はその後の不幸な戦争を暗示していたように感じるのです。

さて、ここまで5件を例示しましたが、いずれも日本史における大きな転換点となった事件であって、それぞれの事件で雪が降っていたというのはとても不思議で興味深いことだと思いませんでしょうか。5つの事件はいずれも江戸期以降に起きているという特徴があります。
さらに探したらもっと雪の日の大事件というのが見つかるかもしれないですね。
もっとも、大きなクーデター的事件とか奇襲とかで必ず雪が降るという訳ではなく例えば6月の大化の改新、同じく6月の本能寺の変、ハワイに奇襲した真珠湾攻撃では雪は降りようがないですからね。ただ、大化の改新(乙巳の変)の日は雪ではないけど大雨で、本能寺の変も直前までは大雨だったそうですね。信長による桶狭間の奇襲の直前も大雨でした。
真珠湾攻撃は12月8日ですから、連合艦隊が出航した択捉島の単冠湾では雪が降ってもおかしく季節ですが、当日の天気はちょっと調べられませんでした。
なお、太平洋戦争は日本の真珠湾攻撃によって日米の間で勃発しましたが、当時のソ連はドイツと交戦中であって、日本にシベリア方面を攻撃されて東西二方面で戦争状態に陥ることを恐れていたといいます。そこで、ソ連のスパイであるホワイトという人物は日本をソ連ではなくてアメリカに対して開戦させるように仕向けるよう地下工作をしていて、その作戦が「ホワイト」にちなんで「雪作戦」と呼ばれていたそうです。表舞台の話ではないので詳しくは分かりませんが、結果としては「雪作戦」は首尾よく成功して真珠湾攻撃に結びついたという人もいるようです。ここでも「雪」がキーワードになっていたことはなにかの因縁なのでしょうか?

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