
戸隠神社も太陽観測施設だ
== 鹿島神宮~富士山レイラインからの考察・その5 ==
みなさんこんにちは。
一連の鹿島・富士レイライン(仮称)のトピックは前回で一段落にするつもりだったのですが、気が変わり(汗;)続編の5回目です。

私は、以前のブログと、そのあとのブログで、鹿島神宮と富士山とを結ぶ鹿島・富士レイライン(仮称)が立冬および立春における日の入り方向であることから、アマテラスの岩戸隠れ伝説は立冬、立春における太陽が富士山の頂部に沈むことを表しているという意見を述べました。今回は、さらにその拡張版ともいえる考えについて述べさせてもらいます。
〇戸隠神社について
私は数年前に長野に旅行に行ったとき、地元に住む知人に戸隠そばを是非食べるべきだと勧められて当初の旅程にはなかった戸隠神社のすぐ横まで行ったことがあります。
戸隠神社は、実際はお互いに離れた奥社・中社・ 宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社から成り立っています。当時神社などに興味のなかった私は中社の近くで戸隠そばを食べ、そのまま参拝もせずに次の目的地へ行ってしまったのでしたが、今思うと中社と奥社だけでも参拝するべきだったと後悔してます。もっとも、メインの奥社の参道は、片道2kmの山道なのでかなり大変なのですが。
ところで、皆さんは「戸隠」という一風変わった名前から何を連想しますか?
そうですよね、アマテラスの「岩戸隠れ」との関連が考えられます。ネットで調べてみるとやはり関連があるようでして、岩戸に隠れたアマテラスを外に引き出したアメノタヂカラオがその岩を放り投げて落ちてできたのが戸隠山だという伝説があるそうです。もっとも、古事記、日本書紀にはアメノタヂカラオが岩を投げたという記載はなく、後世に作られた話のようです。
奥社はアメノタヂカラオ、火之御子社はアメノウズメ、中社はオモイカネという岩戸隠れ伝説で活躍をした神々が祀られています。
では、なぜ岩戸隠れ伝説を想起させる神社が長野の山奥にあるのでしょうか?
私の以前のブログで紹介した考えでは、岩戸隠れとは鹿島神宮から見て立冬に太陽が富士山の位置に沈むことに基づいているはずなのですが、茨城の鹿島神宮と長野の戸隠神社とではあまりに離れていて、関係が見いだせず不思議に感じていました。
改めて関東・甲信地方の地図を眺めてみますと、戸隠神社は鹿島神宮の西北西方向にあります。 えっ? 西北西?? と思って調べてみるとカンは当たりました。冒頭の図を見てください。
戸隠神社から見て、立冬および立春における日の出方向を延長するとほぼ鹿島神宮に達するのです。「戸隠~鹿島レイライン」と図示した紫色の線です。
逆に言えば、鹿島神宮から見て戸隠神社は立夏、立秋における日の入り方向になります。やはり、戸隠神社と鹿島神宮は関連がありそうです。
〇それでも、なぜ長野の山奥なの?
でも、戸隠神社から鹿島神宮までは約200kmほどあります。単に戸隠~鹿島レイライン上に神社を設けるというのなら、何もそれほど離れた場所にしなくても良さそうなものですが、なぜなのでしょうか?
そこで、戸隠神社についてさらに調べてみますと、メインとなる奥社の参道が特徴的で気になります。次の図を見てください。

奥社の参道は、先ほども紹介したように2kmという長い参道で、しかも入口から本殿近くまでずーっと直線なのです。これほど長い直線の参道は日本最長クラスでしょう。さらに、その参道は一般的な南向きではなく南東の中途半端な方向を向いています。極端に長い直線、中途半端な向き、これはかなり怪しいです。
長い長い参道は、調べると冬至における日の出方向になっていました。しかも、その延長線は5kmほど離れた怪無山( けなしやま、1549m )の頂上に達します! つまり、古代の人は奥参道の直線路から南東側を観察して、怪無山の頂上から日が昇るときに冬至であることを認識したのでしょう。
鹿島神宮でも、似たようにかなり長い奥参道が立冬、立春における日の入り方向に一致していました。戸隠神社も鹿島神宮と同じように、季節の変化を観測するための太陽観測基地の役割があったのでしょう。
〇奥社参道の直線路端から見た南東側稜線
平面図では日の出のイメージがつかみにくいと思いますので、奥社参道の直線路端から見た南東側稜線の図を作成してみましたので参照してください。

(カシミールというフリーソフトで自動作成できるらしいのですが使い方が分からない(TT)。仕方ないので地図で等高線と距離を読んでエクセルでシコシコ作成しました…。 日の出位置については、山の高さを無視して簡略化してます。)
この図から分かるように、冬至の日の出は怪無山頂上から上がるので分かりやすいのですが、それだけではなく立冬および立春には瑪瑙山(めのうやま、1748m )頂上付近から日が昇り、寒露および啓蟄には高デッキ山(1717m)頂上付近から日が昇りますので、これらの季節の観測にも便利だったと思います。
すなわち、南東稜線が季節の「目盛り線」の役割を果たせるのです。また、高デッキ山よりも東側には高い山がなく、寒露(10月8日ころ)になって秋の気配が感じられると、日の出が山に遮られるようになり、正にアマテラス(=太陽)が岩戸(=山並)に隠れることになり、「岩戸隠れ」の現象が観察されたことでしょう。
さらには、戸隠神社奥社は標高1300mほどの高い場所にあるとともに怪無山、瑪瑙山、高デッキ山との間には鳥居川が流れていて比較的深い谷を形成してますので、視界を遮る障害物がなくて、南東側の山並みを観察するのには絶好のポイントです。怪無山、瑪瑙山の北西面は戸隠スキー場になっているように、長く緩やかな傾斜面は対岸の奥社側から見やすいでしょう。しかも怪無山、瑪瑙山、高デッキ山までは約5kmという適度な距離であるし、これらの山々は日の出を観測するのに適度な標高です。
このようなことから、冬場には積雪が深いというデメリットもありますが、この場所が秋~冬の日の出位置観測場所に選ばれて奥社が設けられたのだと思います。
中社が怪無山の山麓に存在することも何か意味がありそうな気がします。冬至のころには、中社から神官が怪無山頂上に登って奥社の観察者と合図を送りあったりしたのではないでしょうか。
〇鹿島神宮における観測だけでは足りないのか
さて、このように戸隠神社が立冬や冬至などを日の出位置によって観測する施設の役割を持っていたことはほぼ間違いないと思うのですが、以前に紹介したように鹿島神宮も同様の機能を持っていたと考えられます。鹿島神宮における観測だけでは足りないのでしょうか?
ここからは確証のない推論になりますが、鹿島神宮では太陽が富士山の頂に沈む時期を立冬、立春として認識できたはずですが、次のような不都合もあったのではないでしょうか。
不都合1:富士山は日本最高峰とはいえ、鹿島神宮からは180kmあって見かけ高さが低すぎて観測用目印に適さない。
不都合2:鹿島神宮では富士山を利用して立冬、立春を認識することはできたが、最も日が短くなる冬至の観測には不向きであった。
不都合3:鹿島神宮では「日の入り」位置に基づいて季節の認識をするが、太陽信仰という観点からは西の「日の入り」よりも東の「日の出」のほうが太陽誕生のイメージから有難みがあって、できれば「日の出」に基づく観測をしたい。
不都合4:東実説(以前のブログ参照)によれば国津神の住む葦原中国は西日本であったのに対し、天津神の住む高天原は東日本であったといいます。
鹿島神宮での季節の観測結果は東日本に住む天津神に公表したことでしょう。しかし、東日本といっても広く、信越地方もその支配下であったとすれば鹿島神宮からは遠くて情報伝達が遅くなります。そこで、長野あたりにも第2観測基地が必要になったのでは?
このうち、不都合1についてはもっと富士山の近くに行って観測をすれば足りることになります。そこで気になるのが鹿島神宮~富士山レイライン上で相模原にある「鹿島神社」です。冒頭の図をもう一度参照してください。この鹿島神社の由来は分かりませんが、鹿島神宮から富士山までのちょうど2:1の地点にあり偶然の配置とは思えません。この場所ならば富士山はかなり大きく見えますので観測に不便はないでしょう。なお、この鹿島神社は現在は米軍基地内にあって、一般人は入ることができないはずです。
不都合1については、相模原の鹿島神社で補うことができたとしても、依然として不都合2~4については解消されず、それゆえそれらを補うために長野の戸隠の地が選ばれ、両者は連携しながら観測をしたのではないでしょうか。
今回も勝手な想像の話を書かせてもらいましたが、戸隠神社という存在に対してさらに興味を持ちましたので少し本など読んでみようかと思います。また、機会があれば戸隠神社を再訪したいです。
知人に勧められて中社の近くで食べた戸隠そばと舞茸天は絶品でしたからまた食べてみたいですね。
== 鹿島神宮~富士山レイラインからの考察・その5 ==
みなさんこんにちは。
一連の鹿島・富士レイライン(仮称)のトピックは前回で一段落にするつもりだったのですが、気が変わり(汗;)続編の5回目です。

私は、以前のブログと、そのあとのブログで、鹿島神宮と富士山とを結ぶ鹿島・富士レイライン(仮称)が立冬および立春における日の入り方向であることから、アマテラスの岩戸隠れ伝説は立冬、立春における太陽が富士山の頂部に沈むことを表しているという意見を述べました。今回は、さらにその拡張版ともいえる考えについて述べさせてもらいます。
〇戸隠神社について
私は数年前に長野に旅行に行ったとき、地元に住む知人に戸隠そばを是非食べるべきだと勧められて当初の旅程にはなかった戸隠神社のすぐ横まで行ったことがあります。
戸隠神社は、実際はお互いに離れた奥社・中社・ 宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社から成り立っています。当時神社などに興味のなかった私は中社の近くで戸隠そばを食べ、そのまま参拝もせずに次の目的地へ行ってしまったのでしたが、今思うと中社と奥社だけでも参拝するべきだったと後悔してます。もっとも、メインの奥社の参道は、片道2kmの山道なのでかなり大変なのですが。
ところで、皆さんは「戸隠」という一風変わった名前から何を連想しますか?
そうですよね、アマテラスの「岩戸隠れ」との関連が考えられます。ネットで調べてみるとやはり関連があるようでして、岩戸に隠れたアマテラスを外に引き出したアメノタヂカラオがその岩を放り投げて落ちてできたのが戸隠山だという伝説があるそうです。もっとも、古事記、日本書紀にはアメノタヂカラオが岩を投げたという記載はなく、後世に作られた話のようです。
奥社はアメノタヂカラオ、火之御子社はアメノウズメ、中社はオモイカネという岩戸隠れ伝説で活躍をした神々が祀られています。
では、なぜ岩戸隠れ伝説を想起させる神社が長野の山奥にあるのでしょうか?
私の以前のブログで紹介した考えでは、岩戸隠れとは鹿島神宮から見て立冬に太陽が富士山の位置に沈むことに基づいているはずなのですが、茨城の鹿島神宮と長野の戸隠神社とではあまりに離れていて、関係が見いだせず不思議に感じていました。
改めて関東・甲信地方の地図を眺めてみますと、戸隠神社は鹿島神宮の西北西方向にあります。 えっ? 西北西?? と思って調べてみるとカンは当たりました。冒頭の図を見てください。
戸隠神社から見て、立冬および立春における日の出方向を延長するとほぼ鹿島神宮に達するのです。「戸隠~鹿島レイライン」と図示した紫色の線です。
逆に言えば、鹿島神宮から見て戸隠神社は立夏、立秋における日の入り方向になります。やはり、戸隠神社と鹿島神宮は関連がありそうです。
〇それでも、なぜ長野の山奥なの?
でも、戸隠神社から鹿島神宮までは約200kmほどあります。単に戸隠~鹿島レイライン上に神社を設けるというのなら、何もそれほど離れた場所にしなくても良さそうなものですが、なぜなのでしょうか?
そこで、戸隠神社についてさらに調べてみますと、メインとなる奥社の参道が特徴的で気になります。次の図を見てください。

奥社の参道は、先ほども紹介したように2kmという長い参道で、しかも入口から本殿近くまでずーっと直線なのです。これほど長い直線の参道は日本最長クラスでしょう。さらに、その参道は一般的な南向きではなく南東の中途半端な方向を向いています。極端に長い直線、中途半端な向き、これはかなり怪しいです。
長い長い参道は、調べると冬至における日の出方向になっていました。しかも、その延長線は5kmほど離れた怪無山( けなしやま、1549m )の頂上に達します! つまり、古代の人は奥参道の直線路から南東側を観察して、怪無山の頂上から日が昇るときに冬至であることを認識したのでしょう。
鹿島神宮でも、似たようにかなり長い奥参道が立冬、立春における日の入り方向に一致していました。戸隠神社も鹿島神宮と同じように、季節の変化を観測するための太陽観測基地の役割があったのでしょう。
〇奥社参道の直線路端から見た南東側稜線
平面図では日の出のイメージがつかみにくいと思いますので、奥社参道の直線路端から見た南東側稜線の図を作成してみましたので参照してください。

(カシミールというフリーソフトで自動作成できるらしいのですが使い方が分からない(TT)。仕方ないので地図で等高線と距離を読んでエクセルでシコシコ作成しました…。 日の出位置については、山の高さを無視して簡略化してます。)
この図から分かるように、冬至の日の出は怪無山頂上から上がるので分かりやすいのですが、それだけではなく立冬および立春には瑪瑙山(めのうやま、1748m )頂上付近から日が昇り、寒露および啓蟄には高デッキ山(1717m)頂上付近から日が昇りますので、これらの季節の観測にも便利だったと思います。
すなわち、南東稜線が季節の「目盛り線」の役割を果たせるのです。また、高デッキ山よりも東側には高い山がなく、寒露(10月8日ころ)になって秋の気配が感じられると、日の出が山に遮られるようになり、正にアマテラス(=太陽)が岩戸(=山並)に隠れることになり、「岩戸隠れ」の現象が観察されたことでしょう。
さらには、戸隠神社奥社は標高1300mほどの高い場所にあるとともに怪無山、瑪瑙山、高デッキ山との間には鳥居川が流れていて比較的深い谷を形成してますので、視界を遮る障害物がなくて、南東側の山並みを観察するのには絶好のポイントです。怪無山、瑪瑙山の北西面は戸隠スキー場になっているように、長く緩やかな傾斜面は対岸の奥社側から見やすいでしょう。しかも怪無山、瑪瑙山、高デッキ山までは約5kmという適度な距離であるし、これらの山々は日の出を観測するのに適度な標高です。
このようなことから、冬場には積雪が深いというデメリットもありますが、この場所が秋~冬の日の出位置観測場所に選ばれて奥社が設けられたのだと思います。
中社が怪無山の山麓に存在することも何か意味がありそうな気がします。冬至のころには、中社から神官が怪無山頂上に登って奥社の観察者と合図を送りあったりしたのではないでしょうか。
〇鹿島神宮における観測だけでは足りないのか
さて、このように戸隠神社が立冬や冬至などを日の出位置によって観測する施設の役割を持っていたことはほぼ間違いないと思うのですが、以前に紹介したように鹿島神宮も同様の機能を持っていたと考えられます。鹿島神宮における観測だけでは足りないのでしょうか?
ここからは確証のない推論になりますが、鹿島神宮では太陽が富士山の頂に沈む時期を立冬、立春として認識できたはずですが、次のような不都合もあったのではないでしょうか。
不都合1:富士山は日本最高峰とはいえ、鹿島神宮からは180kmあって見かけ高さが低すぎて観測用目印に適さない。
不都合2:鹿島神宮では富士山を利用して立冬、立春を認識することはできたが、最も日が短くなる冬至の観測には不向きであった。
不都合3:鹿島神宮では「日の入り」位置に基づいて季節の認識をするが、太陽信仰という観点からは西の「日の入り」よりも東の「日の出」のほうが太陽誕生のイメージから有難みがあって、できれば「日の出」に基づく観測をしたい。
不都合4:東実説(以前のブログ参照)によれば国津神の住む葦原中国は西日本であったのに対し、天津神の住む高天原は東日本であったといいます。
鹿島神宮での季節の観測結果は東日本に住む天津神に公表したことでしょう。しかし、東日本といっても広く、信越地方もその支配下であったとすれば鹿島神宮からは遠くて情報伝達が遅くなります。そこで、長野あたりにも第2観測基地が必要になったのでは?
このうち、不都合1についてはもっと富士山の近くに行って観測をすれば足りることになります。そこで気になるのが鹿島神宮~富士山レイライン上で相模原にある「鹿島神社」です。冒頭の図をもう一度参照してください。この鹿島神社の由来は分かりませんが、鹿島神宮から富士山までのちょうど2:1の地点にあり偶然の配置とは思えません。この場所ならば富士山はかなり大きく見えますので観測に不便はないでしょう。なお、この鹿島神社は現在は米軍基地内にあって、一般人は入ることができないはずです。
不都合1については、相模原の鹿島神社で補うことができたとしても、依然として不都合2~4については解消されず、それゆえそれらを補うために長野の戸隠の地が選ばれ、両者は連携しながら観測をしたのではないでしょうか。
今回も勝手な想像の話を書かせてもらいましたが、戸隠神社という存在に対してさらに興味を持ちましたので少し本など読んでみようかと思います。また、機会があれば戸隠神社を再訪したいです。
知人に勧められて中社の近くで食べた戸隠そばと舞茸天は絶品でしたからまた食べてみたいですね。
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