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ゆっくり歩こう

太陽信仰は恐怖心理に基づいている

早いもので当ブログも開設一周年を迎えました。この間、著名・人気ブログには足元にも及ばないものの、思いのほか多くの方に読んでもらうことができて自分でも驚いています。読者の皆様には厚く御礼申し上げます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
ブログの内容ですが、当初の自分の思惑とはだいぶ違うものになってしまっていますが、流れに任せてこれからも書いていこうと思っています。


私はこのブログを始めてから太陽というものを意識するようになりました。
師走も半ばにさしかかり日が短くなりました。今の時期、私の住む関東地方では日の出は6時半くらい、日の入りは4時半くらいです。日の出の6時半も遅いけど、日の入りの4時半って早すぎです。3時のおやつを食べて少ししたら日没になってしまうし、定時で仕事を終わっても日は落ちてしまっている訳ですから。
でも、皆さんは部屋でも、電車内でも、車で車道を走っていても電燈があって暖房が利いていて切実な思いなどないでしょうし、むしろ全く気になっていない人が多いのではないでしょうか?

一万年前に地球の気候が安定し、人類は放浪の狩猟生活から抜け出すことができ農耕生活に移行しました。日本でも農耕、主に稲作は主要産業になり自治集落や国を運営維持するために稲の生育は極めて重要な事項になります。古代には他の産業はほとんど存在せず、稲・農業が産業のほぼ全てだったのかもしれません。天皇が行う行事にはいろいろあって、現在では外国主賓の受け入れとか大臣認証式とかありますが、実は古い歴史があって重要度の高いものに新嘗祭(収穫祭のようなもの)があります。また、近世からの行事のようですが天皇自らが田植えや稲刈りをされるのも我が国における古来の稲作の重要性と無関係ではないでしょう。
人類は狩猟生活においても自然とともにあったわけですが、農耕をするようになると「自然」といよりもむしろ「天気」が気になるようになって、特に太陽の運行には相当に神経質になっていたのだと思うのです。
特にこの時期、6時半にならないと日が昇らず、低い運行で、4時半にはもう日が落ちてしまう。暗くて寒い。作物が育たなくなる。
古代の人たちはそれはそれは気になったでしょう。「心配・不安」というようなレベルではなくて、毎年のことではあっても死活的に戦々恐々として「恐怖」を感じていたかもしれません。これはたぶん現代人には理解できないことなのではないでしょうか。
世界には多くの太陽信仰宗教があります。日本の神道も太陽神アマテラスをトップとする太陽信仰宗教ですが、なぜなのか? 大半の現代人は「だって太陽って光と暖かさをもたらしてくれる『偉大な存在』であって『感謝』するからさ。決まってんじゃん。」と思うでしょう。
でも、私は少しだけ違う気がするのです。「感謝」というよりも「恐怖」に近い心情だったのではないでしょうか。
日本神話で最も有名な一節にアマテラスの岩戸隠れ伝説があります。なぜあの一節が特別目立つようになっているのかというと、つまりはアマテラス(太陽)が消滅してしまうことへの「恐怖」だと思うのです。「偉大な存在」としての太陽への「感謝」ということであれば、もっと別の表現がなされていたはずです。
人類は狩猟から農耕に移行して生活は安定しましたが、それでも現代と比較すれば作物不作による飢餓の危険は存在していて、常に「死の恐怖」と隣り合わせだったのだと思います。そのような人々にとって「偉大な存在への感謝」というほどの気持ちの余裕は生まれず、太陽信仰というのはそのような生きて行くための必死で必然の信仰だったと思うのです。
日本人は近世以降、徳川家康を日光東照宮に祀り、明治天皇を明治神宮に祀るように「偉大な存在」を崇めるということをしますが、もう一方で中世以前には「恐怖」をもたらす祟り神をも篤く祀ります。典型的な例は菅原道真を祀る全国に散在する天満宮でしょう。菅原道真の不遇の死の後に日本中に災難が発生し道真の祟りであると考えられて建てられたのが数多くの天満宮です。これも「恐怖」に基づく行動だと言えるでしょう。
現代人は祟りなどというと苦笑して相手にしないでしょうけど、平安時代の人びとにとってはきわめて現実的な問題であったはずです。
先日に当ブログでご紹介した火山と神社との位置関係についても、火山に対する恐怖あるいは畏怖という考え方に基づいていると思います。

まぁ、つまるところ何が言いたいのかというと、神話や古代史を考えるうえで当時の人びとの生活や心情をよく想像して、できれば彼らの身になりきって考えてみることが大事で、そうすることによって神話なども解釈が変わってくる可能性がると思うのです。
近世以降の歴史は古文献解読や遺跡発掘という手段があるし、生活も思考もある程度現代と共通するところがあって研究しやすいのでしょうけど、神話時代・古代というのはそのような手段がほとんどなくて異次元世界を探究するような難しさがあります。
ですから、古事記・日本書紀の解析も重要でしょうけど、まずは古代人の生活・思想に立ち返って考えてみることが必要で、それにより新たな発見もあるような気がするのです。


もうすぐ冬至。古代人の目線で日の出、日の入りを眺めてみませんか。

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