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現代史を習いましたか?

現代史を習いましたか?
ご訪問ありがとうございます。

年が明けて早くもひと月がたとうとしています。年末の話で恐縮なのですが、NHKの紅白歌合戦を見ていたら、めずらしくサザンオールスターズが出演していましたね。30年ぶりとかで、目玉になっていたようです。注目もあびたことでしょう。
歳のせいか最近は歌謡曲にもすっかりご無沙汰で分からなくなっているのですが、サザンが出演しているので少し驚いてテレビをのぞき込んでいました。
2曲歌いましたが、最初の「ピースとハイライト」という曲の前半くらいの歌詞に「ハッ!」とさせられました。以下のような歌詞です。

教科書は現代史はやる前に時間切れ
そこが一番知りたいのに
なんでそうなっちゃうの」

よくぞ、紅白の舞台で日本全国民に向かって公言してくれた!
そうなんです。中学でも高校でも歴史の時間に現代史は教えてもらえないのです。私自身が教えてもらえなかったし、自分の身の回りの人にいくら聞いても「そういえば時間切れで教えてもらわなかった」と口をそろえて答えます。皆さんもそうではなかったでしょうか?
私の場合は、歴史の授業は中学と高校で同じようなことを繰り返して教わり、しかも弥生時代とかのどうでもいい時代に無駄に時間をかけて、結局江戸末期くらいで時間切れになってしまい、「後は教科書を読んでおいてください」、と。
いうなれば日本のほぼ全国民が現代史を知らないまま社会に出ているのです。恐ろしいことだと思いませんか。
歴史の先生たちは何か圧力を受けているのか、何か恐れているのか、よく分かりませんが、意図的に現代史を教えることを避けているのは明白です。

現代史といえばやはり太平洋戦争が一番大きなエポックだったわけですが、隣国の中国や韓国は(台湾は違いますね)事あるごとに「日本は悪しき帝国主義で侵略戦争をした。反省しろ。」というスタンスで挑んできますが、肝心の我々が現代史を知らないのではどうにもなりません。
「本当にその通りです。ごめんなさい。」とも言えないし、「いや、歴史を知らないのはあなたがただ。あの戦争はそんな単純なものだったのではない。」とも言えません。
私自身も高校までの授業では現代史を習わなかったので、なんとなく世間やマスコミで形成されている漠然とした現代史観であの戦争をとらえていました。
でもようやくここ5年くらいの間に相当数の本を手に取ってみて自分なりの太平洋戦争史観ができてきた気がします。
学校で教えてくれないのならば自ら学ばなければしょうがないです。自衛のようなものです。太平洋戦争というのは悲劇であり、重要な出来事でした。ついほんの70年前のことです。現代の我々はこれに向き合って学ぶ義務・責務があると考えるのです。
その結果、あの戦争をどう捉えるのかは人それぞれかもしれません。しかし、学ぶこともなくイメージで「日本は悪い戦争をした」とか、「あれは防衛戦争だったのだ」ととらえることはいけないと思います。また、あの戦争に関心を払わないというのはもっといけないことだと思います。
特に、若い人たちに昭和史をよく学んでほしいな、と思います。それを知らなければ、これからの国際化時代にアジア諸国、ロシアそしてアメリカに対して真の意味で深く向き合っていくことはできないはずです。外国語の勉強以前の話です。「昔の話」と片付けるのはよくないでしょう。現在にも連綿として影響し続けていることだと思うのです。



ところで、サザンオールスターズの桑田佳祐は上記のように「教科書は現代史はやる前に時間切れ」と歌っているのですが、そう言う以上自分で歴史を紐解いてみたのでしょうか。彼の昭和史観を聞いてみたい気もします。
それにしても、最近の桑田はすごく反骨的なパフォーマンスが目立ちますね。どうしたのでしょうか。

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本能寺の変を伝えたスーパーランナー・飛脚<2>

本能寺の変を伝えたスーパーランナー・飛脚<2>
変を予見していた秀吉

ご訪問ありがとうございます。

前回の続きです。
前回は京都の宗仁が備中の秀吉に遣わしたスーパー飛脚に着目しましたが、京都から岡山方面へ飛脚を差し向けたのは宗仁だけではありませんでした。他ならぬ本能寺の変の首謀明智光秀です。

信長の有能な家臣だった光秀は主君信長を討った瞬間に他の有能な家臣団を全て敵に回して戦う宿命でした。秀吉はもちろん柴田、丹羽、滝川などの家臣に加えて信長の同盟者家康までもが新たな敵になります(家康は光秀と組んでいたという説もありますが)。これらのそうそうたる顔ぶれに対して単独で戦うことはどう考えても無理がありますので当然に善後策を考えていました。それは、もともと信長と対峙していた毛利、上杉、長曾我部を味方に引き入れることです。この中でも最大の勢力は中国の毛利です。本能寺の変の成否は、変そのものにおいて信長を討つことも重要でしょうが、それと同じ程度に毛利を味方に引き入れることができるか否かにかかっていました。後年、石田三成が徳川家康と対抗するのに毛利を引き込んだのと同じ構図です。
毛利は秀吉に攻められて苦しんでいましたし、上杉も柴田と敵対していました。光秀と長曾我部は良好な関係でした。ですから、光秀の目論見としては毛利、上杉、長曾我部は当然に加勢してくれて、信長亡き後の残存勢力は中国、北陸、四国(もしかしたら三河も)で包囲され、しかも中心地の京都は光秀自身が抑えることにより、信長軍団は霧散・瓦解がまぬがれないと踏んでいたでしょう。
それが成功すれば、あの有名な清州会議は信長家臣団ではなくて新同盟となる光秀、毛利、上杉、長曾我部(+家康?)が臨席することになっていたかもしれません。この中で少なくとも毛利と上杉は天下取りの野望があまりなかったようですから、その後の中世の形態はずいぶんと変わっていた可能性があります。


さて、ここからです。
この計画は光秀自身が拠点となるべき京都の支配権を維持していることが大前提でした。
しかしながら、その京都支配を安定化させる前に秀吉の中国大返しを受けて光秀自身が討たれてしまったのですね。光秀は奇襲で信長を討ちましたが、その光秀も奇襲と言えるほど早い秀吉の行動によって倒されたのです。この短時間の攻防ではスピードが命運を握っていました。結果的に秀吉が光秀に対してあらゆる面のスピード戦で勝りました。スピードとは攻守に応じた軍備スピード、停戦または協力要請の外交スピードそして情報伝達スピードです。
光秀側も一刻も早く毛利に加勢してもらいたかったでしょうから、岡山方面へ向けて飛脚を飛ばしました。宗仁と同様に優秀な飛脚を用意していたことでしょう。複数の飛脚を遣わせたかもしれません。
しかし、毛利へ向けた飛脚は秀吉の哨戒網にかかり補足されてしまい、毛利には本能寺の変の情報が伝わりませんでした。毛利側は本能寺の変を知らずに和解交渉に臨むことになってしまいました。敵の大将の信長が亡くなっていると知っていれば和解などする必要はなかったのに。
秀吉にとって極めて重要な諜報戦の勝利です。秀吉の運命を切り開いた瞬間と言えるかもしれません。
ここで疑問があるのです。
光秀は、毛利へ向けた飛脚には「途中、秀吉の陣で捕まらないように十分注意しろよ。」と当然に言い含めていたと思うのです。早いに越したことはないが途中で捕まってはどうしようもない。安全第一です。飛脚自身も言われるまでもなくその用心はしていて、秀吉の陣の周辺ではなるべく目立たないように配慮していたはずです。捕まったら殺されるかもしれない。あまり人の通らないような山中を選んで進んでいたかもしれません。
それでも飛脚は秀吉兵に捕まってしまいました。なぜでしょうか?
それは、つまりそれだけ秀吉側が特別警戒網を構築していたからだと思うのです。通常とは違って警戒レベルを上げていて、それこそ蟻の子一匹も漏らさないような。
なぜか。それは光秀側の使者か飛脚が通ることを予見していた、さらに言えば本能寺の変を予見していたからに他ならないと考えるのです。

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本能寺の変を伝えたスーパーランナー・飛脚<1>

本能寺の変を伝えたスーパーランナー・飛脚<1>
== 変を予見していた秀吉 ==

ご訪問ありがとうございます。

今回も秀吉の話を。本能寺の変の直後の話です。
本能寺の変は長い日本史の中でも謎が多い事件であってその全体像についてはいろいろな説があります。単純には明智光秀の単独犯行で諸将は誰も味方しなかったというように見られますが、実は光秀に指示したり、そそのかしたり、協力した共犯者がいたのではないかという意見が多くあります。
その指示者、教唆者、共犯者としては家康説、足利将軍説、長曾我部説、朝廷説、秀吉説などがありそれぞれ一定の説得力もあるようで、まさに歴史ミステリーの醍醐味というところでしょう。
この中の秀吉説なのですが教唆者や共犯者とまでは言えないかもしれないけれど、どうも本能寺の変が起こることを事前に察知していたらしいという説は多いようです。私もそう考えます。いろいろな証拠が挙げられているようですが、私は秀吉に本能寺の変を伝えた飛脚に注目したいと思うのです。


私はマラソン・ジョギングをする市民ランナーです。全く遅い三流ランナーですがそれでもマラソン大会にも出場するれっきとした一人のランナーに間違いはありません。そして昔の飛脚という人々もまたランナーだったわけです。そこで、ランナー目線で秀吉に本能寺の変を伝えた飛脚について考えてみます。
本能寺の変は1582年6月21日未明に明智軍が信長の宿所である本能寺(京都)を襲撃し始め、午前8時くらいにはその襲撃が終わったといいます。つまり、信長が死んだのはその時刻、午前8時とみなしましょう。
午前のうちには周辺の市民にも「本能寺で信長が殺されたらしい」と認識されたされたことでしょう。
秀吉に急報を発したのは本能寺の近くにいた長谷川宗仁という人物です。火急の重大事ですから飛脚をすぐに出立させたことでしょう。
そしてその飛脚がいまの岡山県、備中高松城を攻めている秀吉の陣に当着したのは翌22日中だったというのが通説です。この迅速な情報伝達がその後の驚異的な中国大返し成功のカギとなりました。
「馬を使えば速いのに」、と思う方もいらっしゃるでしょうが、馬は長距離・長時間走らせることはできないのだそうで、一人の飛脚が全行程を走りきるのが一番早かったのだそうです。
ここで少し考えましょう。飛脚は京都から大阪を経由して山陽道を岡山へ向かったはずですが、調べてみると距離は240kmにもなります!
飛脚の京都出発を21日の正午と仮定し、高松の陣当着を22日の夜の20時と仮定しますと、240kmを32時間で走破したことになります。恐るべし。
こんなことは現実に可能なのか? そこで調べてみました。
現代におけるトップランナーと比較してみましょう。フルマラソンは42kmですが、それを超えるウルトラマラソンというカテゴリーがありサロマ湖100km、四万十川100kmが有名ですし人気も高いです。参加者も多いのです(実は日本はこのクラスで世界トップレベルです)。しかし、これよりもさらに長いスーパーウルトラマラソンともいうべき大会もあります。日本ではこのクラスでは山口萩往還250kmという大会がメジャーだと思います。くしくも京都~岡山240kmとほぼ同距離です。
調べてみると去年のこの大会の優勝者は竹田賢治という方で記録は31時間24分でした。
なんと、戦国時代の飛脚の仮定タイムとほとんど同じではありませんか。ということは、飛脚は神でも化け物でもなく、生身の人間が京都~岡山の240kmを32時間くらいで走ることは十分にありえるということです。

ただしここで注意が必要なのです。私を含めて現代のマラソンランナーは、距離が長い大会で、ここ一番で記録を狙おうという大会に挑む際には事前に十分な準備をするということです。一年に一つか二つの大会に絞り、それに向けて何か月も前から十分な練習をつみます。大会直前になれば練習量を落として栄養をとり、マッサージやストレッチを入念に行い、酒も控えます。そして、大会前日には、カーボローディングといって炭水化物の多い食事を摂って早めに就寝します。精神的準備を整えることももちろんです。これらの準備が全てうまくいかないと好記録は望めないのです。前述の竹田賢治という優勝者も250kmに挑むにあたって綿密な計画の元で準備を進めたことと思います。
そしてもうひとつ、単純だけど重要なこととしては、そのようなパフォーマンスを発揮できる者は極めて限られているということです。たとえば、私自身には到底無理な話ですし、マラソンの有名選手といっても川内優輝選手でも無理だと思います。彼が早いのは42kmであって250kmというのは別種目と考えるべきです。適任者は日本中探してもそうたくさんはいません。
現代のランナーを例にして説明しましたが、戦国時代の飛脚も同じ人間ですから同様に考えるべきです。

さて、秀吉に飛脚を使って急を知らせた長谷川宗仁は、なぜ迅速な情報伝達を成功させたのでしょうか? それは、あらかじめ飛脚の中でも超長距離に向いたトップレベルの優秀な者をスカウトして囲っておき、6月21日あたりに大きな仕事をしてもらうから体調を十分に整えておくようにと指示していたとしか考えられないのです。もちろん他の仕事は断らせていたはず。
つまり、秀吉方の宗仁は本能寺の変を予見していたのでしょう。飛脚に持たせる書面も予め書いて用意していたかもしれません。それらは宗仁の独自の判断と言うより秀吉の指示で行ったと考える方が自然でしょう。
もし、何の備えもなくて本能寺の変に直面して慌てふためいてそのへんの飛脚にいきなり「明日中に備中の高松の陣までこの書面を届けてほしい」と依頼したところで、「お武家はん、無茶い言いはりまんなぁ」とか京都弁(?)でやんわり断られそうです。
結論、秀吉はやはり本能寺の変を予見していて、周到な準備を敷いていたと思うのです。

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豊臣秀吉の戦術の特色について<2>

豊臣秀吉の戦術の特色について<2>
ご訪問ありがとうございます。

豊臣秀吉の戦術の特色についての続きです。
これまで見てきたように、秀吉の優れた戦術というのは、戦場での兵馬の動かし方ではなくで、後方戦術に重点を置いたものと言えるでしょう。そして、この戦国時代に豪勇の将は多くとも、このような実務型の器は少なかったのです。それが、秀吉の成功の秘訣だったのかもしれません。
さらに残念なことには、時代が下って太平洋戦争時代の日本軍にも秀吉のように後方支援の重要性を認識していた将校が少なかったように思えます。ここでは深く触れませんが。歴史は繰り返すと言うか、民族気質は変わらないというのか、やはり歴史には学ばないといけないのだと思います。


秀吉は他にも多くの能力がありました。「戦術」ではなくて「戦略」の能力としては、敵方を懐柔させたり降伏させたりする交渉や駆け引きがうまかったですし、明るく派手好きな性格は人を惹きつける魅力も持っていました。体は小さかったれけど、ものに取り掛かる時は徹底して大きく行動しました。戦いでも、遊びでも、信長へのご機嫌取りでもケチなことはしませんでした。家康を服従・懐柔させるときには粘りに粘り、最後には母や姉を実質的な人質として家康に差し出すという大胆なことをします。ふつう逆です。人質というのは臣下の者が服従する相手に差し出すものです。
こうして改めて秀吉という人物を考えてみると、「戦国時代」の代表的人物でありながら戦の場での勇猛な活躍というのはほとんどなく戦略、アイデア、準備というプランニングや、人的魅力、豪気な気力などで出世していったことが分かります。
秀吉は晩年、側近にこう語ったと言われてます。
「天下に勇気と智恵とを兼ねそなえた者はわずかにおり、それぞれの国々のぬしになっている。しかしながらその上に大気をそなえた者はいない。大気が、天下をとらせるのだ。」


ただ、秀吉も人の子でしてスーパーマンではなくて欠点もありました。その一つが「猿」とも言われ卑小で醜悪な容姿でしょう。その容姿ゆえ、いかに有能であっても秀吉は女性に全くもてなかったようです。
(そう言う私ももてませんが、、、、TT;)
また、秀吉は戦国武将の例に漏れずにエッチは大好きだったようですが、身体的に子供を作る能力がなかったようにも感じます。一応二人の子供を作ったということになっていますが、その父親は秀吉ではなかったという説が…
秀吉を天下人まで上り詰めさせた精神的原動力は、女性にもてない、子供ができないというコンプレックスにあったのではないかと見ています。これについては、また機会があったら(勝手な)私見をまとめてみたいと思います。

秀吉のコンプレックスとしてはもう一つ、若年時の貧困も挙げられるでしょうか。放浪しながら乞食同然の生活だったようで相当に苦労をしたみたいですね。秀吉の一番古い臣下としては蜂須賀家がありますが、これは盗賊でした。若いころは秀吉も蜂須賀とともに盗賊のようなことをしていたのかもしれません。
秀吉は天下人となった後も、自身の若いころのことはあまり話したがらなかったと言われてます。苦労したのでしょうね。


さらに、秀吉の欠点としては晩年の朝鮮出兵は評価を下げてしまう残念な行為でした。秀吉の言う「大気」が暴走してしまったのでしょうか。

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高松城主・清水宗治について

高松城主・清水宗治について
ご訪問ありがとうございます。

前回は豊臣秀吉の戦術の特色について途中まで書きましたが、その続きの前に、前回の最後に登場した高松城主・清水宗治(しみずむねはる)という人物について好感を持っていますので少しだけ紹介させてもらいます。
清水家は毛利氏家臣ですが配下に加わったのは宗治の代で、歴代の重臣という訳ではありませんでした。高松城は毛利攻めの重要拠点であり信長側から懐柔の誘いもあったようですし、信長本隊が出陣してきたら高松城の落城は疑いもないところでしたが、それでも宗治は毛利側に忠実で秀吉に徹底抗戦するのでした。その後、秀吉と毛利との停戦協議において、秀吉は水責めに遭っていた宗治の命を要求条件の一つとします。毛利側はこの宗治をどうしても助けたいと考えていましたが、宗治は停戦協議の仲介役になっていた安国寺恵瓊から秀吉の要求を暗示されて、自分の命と引き換えで毛利と家臣が助かるならばと自害を快諾します。そして宗治は湖上の船の上で潔く切腹したのでした。
なお、時代劇でよく見る切腹という作法は、この宗治が最初になるそうです。それだけ宗治の最期が見事だったということでしょう。

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豊臣秀吉の戦術の特色について<1>

豊臣秀吉の戦術の特色について<1>
ご訪問ありがとうございます。

前回に秀吉の小田原攻めについて触れましたので、今回は秀吉の戦術について私見を簡単にまとめてみたいとおもいます。
豊臣秀吉は一介の農民から天下人にまで登りつめた出世人でした。それだけに独創的なアイデアや行動力を持った人だったと思います。秀吉が得意だった戦のパターンがいくつかあるのですが、小田原攻めはそれらが凝縮された集大成ともいうべき戦だったように思えます。
第一に囲城戦です。圧倒的戦力で相手の城を囲い込み兵糧攻めにします。小田原攻め以外では三木城攻め(三木の干殺し)が挙げられます。無理攻めせをしないことにより兵力を温存させることができました。逆に、平野部で大軍同士がぶつかり合う本格的野戦は苦手だったようで、小牧長久手の戦いでは家康相手に苦杯をなめていますし、秀吉亡き後ですが関ヶ原の戦いでは豊臣方の西軍が家康の東軍に惨敗しました。
第二に、補給戦略です。囲城戦では、相手は餓えに苦しむことになりますが大軍の味方も食事はしなければならず、この補給は重要でした。秀吉はこのへんもうまかったようです。
第三に、これは小田原攻めには無関係なのですが、機動性です。長距離をきわめて短時間に移動することにより、敵の虚をつきます。本能寺の変の後に明智光秀を討った中国大返しや、賤ヶ岳の戦いにおける美濃返しが挙げられます。この機動性を発揮するのは、単に馬や兵の足が速いというだけではなく、第二に挙げた補給戦略も大きく寄与しています。中国大返しでも美濃返しにおいても、秀吉はと途中に食事などを十分に用意して、移動の便宜を図っていたそうです。
特に、中国大返しでは兵に重い武具を捨てさせて身軽になって移動させ、相手の拠点近くになって予め用意してあった武具を新たに与えたということです。つまり単純な思い付きで移動しているのではなく、先を読んで十分な準備をしていたことが大軍のスムーズな移動を可能にしていたのです。
ということは、秀吉は本能寺の変が起こることを予知していた?
第四に、土木建築技術です。特に短期間の築城を得意としていて、小田原攻めの石垣山城や、信長配下時代における美濃攻めの墨俣城は、ともに「一夜城」と呼ばれていて相手を驚かせました。後者の墨俣城は膠着していた美濃攻めを打開する契機になり、また秀吉が躍進する最初の足がかりともなった重要な成果でした(墨俣築城は創作話という説もあるようですが)。
さらに、備中高松城の水責めも挙げなければならないでしょう。川の流れを変えて高松城のまわりに湖を作り出すという奇想天外で壮大な戦術により毛利方の城主清水宗治を降伏に追込みました。土手をつくり川の流れを変えるという工事もきわめて短期間に行い、さらにその工事の様子は柵で覆って高松城から見えないようにしながら進め、完成後に柵を取り払ったときには清水側からは一夜にして土手が出現したように見えたそうです。小田原攻めの石垣山城と同じパターンですね。
いかにも秀吉のスケールの大きさを感じさせる高松城の水責めですが、発案は秀吉自身なのでしょうか。それとも去年のNHK大河ドラマの黒田官兵衛あたりだったのでしょうか? そもそも、このような水責めはこの高松城攻略が世界史上初めてではなくて、古代中国でも採られた例のある戦術だったようでして、秀吉か官兵衛はそれをヒントにしたと思われます。いずれにしても、それを採用して実現させてしまう秀吉はやはり非凡と言うしかないでしょう。
秀吉の土木建築技術としてもうひとつ。
信長に仕え始めて間もない無名時代のこと、信長は清州城の塀の改修工事をしていたがひどく遅れていたそうでして、秀吉が「自分に任せればすぐに終わらせる」と大見栄をきっていたのでやらせてみたところ実際に驚くほど短期間に修繕してしまったということです。
秀吉は工区をいくつかのブロックに分けて、ボーナスを与えることを条件にして職人に工事のスピードを競わせたのでした。秀吉は人の扱いもうまかったのです。

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小田原城・石垣山城もライン上にある

小田原城・石垣山城もライン上にある
== 鹿島神宮~富士山レイラインからの考察・その48==

ご訪問ありがとうございます。
一連の鹿島・富士レイラインの考察の第48回目です。
小田原城・石垣山城(広域)

小田原城・石垣山城(狭域)

当ブログでは古代や現代の施設を多く取り上げていますが、今回は中世戦国期の小田原城と石垣山城です。両者ともに神奈川県小田原市にあり前者は北条氏の拠点となっていた難攻不落といわれた巨城で、後者はそれを攻める際に豊臣秀吉が築いた攻略用の城です。
先日、熱戦が繰り広げられた箱根駅伝の第5区のコースはこの両城の中間を通ります。大活躍してMVPに輝いた青山学院大の神野大地くんもここを走りました。
天下をほぼ平定していた秀吉は最後の難関の小田原城に兵力を集中させ、その数20万という大群で包囲します。しかし、秀吉らしく無理はせずに包囲したまま持久戦に持ち込む一方、小田原城を見下ろす石垣山に攻略用の石垣山城を築城します。この築城の際に小田原城側からは工事が見えないように細工し完成した後に覆いを外したので、小田原城からはまるで一夜にして城が出現したように見受けられて戦意喪失したと言われてます。このため石垣山城は一夜城とも呼ばれました。

さて、小田原城から見て冬至の日の入り方向にちょうど石垣山城があります。そしてその延長方向には三嶋大社が存在します。
さらに小田原城は鹿島神宮からみた冬至の日の入り方向にかなり近いです。このラインには相模国二之宮の川匂(かわわ)神社(神奈川県二宮町)もあります。
(厳密にいうと、鹿島神宮を起点とした冬至の日の入り方向は三嶋大社はほぼライン上ですが、小田原城、石垣山城、川匂神社は多少誤差があります)
小田原城を起点として夏至の日の出方向には相模国一之宮の寒川神社があります。(寒川神社というのはあまり聞きなれないのですが、数多い氷川神社と何か関係があるのでしょうか? 名前のイメージが似てますね)
また、石垣山城は富士山頂上からみた立冬の日の出方向にあたります。
石垣山(262m)というのは難攻の小田原城を攻略するのに絶好の高台であり、(日露戦争の旅順要塞攻略における203高地(203m)のようなものかも)ここを抑えることは戦術上当然のことかもしれないのですが、不思議にも富士山からみて立冬日の出方向で、かつ小田原城からみて冬至の日の入り方向となる位置なのです。そして、ご存知の通り小田原攻めは秀吉方の勝利に終わり、北条氏は滅亡するのでした。
秀吉の築城としては京都桃山の伏見城も特殊な場所にあります。伏見城と明治天皇陵は隣接していて、ほとんど同位置といえるのですが、この明治天皇陵についての以前のブログを参照してください


次回は、折角なので秀吉の戦術の特色について私見を簡単にまとめてみたいと思います。

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