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豊臣秀吉の戦術の特色について<1>

豊臣秀吉の戦術の特色について<1>
ご訪問ありがとうございます。

前回に秀吉の小田原攻めについて触れましたので、今回は秀吉の戦術について私見を簡単にまとめてみたいとおもいます。
豊臣秀吉は一介の農民から天下人にまで登りつめた出世人でした。それだけに独創的なアイデアや行動力を持った人だったと思います。秀吉が得意だった戦のパターンがいくつかあるのですが、小田原攻めはそれらが凝縮された集大成ともいうべき戦だったように思えます。
第一に囲城戦です。圧倒的戦力で相手の城を囲い込み兵糧攻めにします。小田原攻め以外では三木城攻め(三木の干殺し)が挙げられます。無理攻めせをしないことにより兵力を温存させることができました。逆に、平野部で大軍同士がぶつかり合う本格的野戦は苦手だったようで、小牧長久手の戦いでは家康相手に苦杯をなめていますし、秀吉亡き後ですが関ヶ原の戦いでは豊臣方の西軍が家康の東軍に惨敗しました。
第二に、補給戦略です。囲城戦では、相手は餓えに苦しむことになりますが大軍の味方も食事はしなければならず、この補給は重要でした。秀吉はこのへんもうまかったようです。
第三に、これは小田原攻めには無関係なのですが、機動性です。長距離をきわめて短時間に移動することにより、敵の虚をつきます。本能寺の変の後に明智光秀を討った中国大返しや、賤ヶ岳の戦いにおける美濃返しが挙げられます。この機動性を発揮するのは、単に馬や兵の足が速いというだけではなく、第二に挙げた補給戦略も大きく寄与しています。中国大返しでも美濃返しにおいても、秀吉はと途中に食事などを十分に用意して、移動の便宜を図っていたそうです。
特に、中国大返しでは兵に重い武具を捨てさせて身軽になって移動させ、相手の拠点近くになって予め用意してあった武具を新たに与えたということです。つまり単純な思い付きで移動しているのではなく、先を読んで十分な準備をしていたことが大軍のスムーズな移動を可能にしていたのです。
ということは、秀吉は本能寺の変が起こることを予知していた?
第四に、土木建築技術です。特に短期間の築城を得意としていて、小田原攻めの石垣山城や、信長配下時代における美濃攻めの墨俣城は、ともに「一夜城」と呼ばれていて相手を驚かせました。後者の墨俣城は膠着していた美濃攻めを打開する契機になり、また秀吉が躍進する最初の足がかりともなった重要な成果でした(墨俣築城は創作話という説もあるようですが)。
さらに、備中高松城の水責めも挙げなければならないでしょう。川の流れを変えて高松城のまわりに湖を作り出すという奇想天外で壮大な戦術により毛利方の城主清水宗治を降伏に追込みました。土手をつくり川の流れを変えるという工事もきわめて短期間に行い、さらにその工事の様子は柵で覆って高松城から見えないようにしながら進め、完成後に柵を取り払ったときには清水側からは一夜にして土手が出現したように見えたそうです。小田原攻めの石垣山城と同じパターンですね。
いかにも秀吉のスケールの大きさを感じさせる高松城の水責めですが、発案は秀吉自身なのでしょうか。それとも去年のNHK大河ドラマの黒田官兵衛あたりだったのでしょうか? そもそも、このような水責めはこの高松城攻略が世界史上初めてではなくて、古代中国でも採られた例のある戦術だったようでして、秀吉か官兵衛はそれをヒントにしたと思われます。いずれにしても、それを採用して実現させてしまう秀吉はやはり非凡と言うしかないでしょう。
秀吉の土木建築技術としてもうひとつ。
信長に仕え始めて間もない無名時代のこと、信長は清州城の塀の改修工事をしていたがひどく遅れていたそうでして、秀吉が「自分に任せればすぐに終わらせる」と大見栄をきっていたのでやらせてみたところ実際に驚くほど短期間に修繕してしまったということです。
秀吉は工区をいくつかのブロックに分けて、ボーナスを与えることを条件にして職人に工事のスピードを競わせたのでした。秀吉は人の扱いもうまかったのです。

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