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本能寺の変を伝えたスーパーランナー・飛脚<1>

本能寺の変を伝えたスーパーランナー・飛脚<1>
== 変を予見していた秀吉 ==

ご訪問ありがとうございます。

今回も秀吉の話を。本能寺の変の直後の話です。
本能寺の変は長い日本史の中でも謎が多い事件であってその全体像についてはいろいろな説があります。単純には明智光秀の単独犯行で諸将は誰も味方しなかったというように見られますが、実は光秀に指示したり、そそのかしたり、協力した共犯者がいたのではないかという意見が多くあります。
その指示者、教唆者、共犯者としては家康説、足利将軍説、長曾我部説、朝廷説、秀吉説などがありそれぞれ一定の説得力もあるようで、まさに歴史ミステリーの醍醐味というところでしょう。
この中の秀吉説なのですが教唆者や共犯者とまでは言えないかもしれないけれど、どうも本能寺の変が起こることを事前に察知していたらしいという説は多いようです。私もそう考えます。いろいろな証拠が挙げられているようですが、私は秀吉に本能寺の変を伝えた飛脚に注目したいと思うのです。


私はマラソン・ジョギングをする市民ランナーです。全く遅い三流ランナーですがそれでもマラソン大会にも出場するれっきとした一人のランナーに間違いはありません。そして昔の飛脚という人々もまたランナーだったわけです。そこで、ランナー目線で秀吉に本能寺の変を伝えた飛脚について考えてみます。
本能寺の変は1582年6月21日未明に明智軍が信長の宿所である本能寺(京都)を襲撃し始め、午前8時くらいにはその襲撃が終わったといいます。つまり、信長が死んだのはその時刻、午前8時とみなしましょう。
午前のうちには周辺の市民にも「本能寺で信長が殺されたらしい」と認識されたされたことでしょう。
秀吉に急報を発したのは本能寺の近くにいた長谷川宗仁という人物です。火急の重大事ですから飛脚をすぐに出立させたことでしょう。
そしてその飛脚がいまの岡山県、備中高松城を攻めている秀吉の陣に当着したのは翌22日中だったというのが通説です。この迅速な情報伝達がその後の驚異的な中国大返し成功のカギとなりました。
「馬を使えば速いのに」、と思う方もいらっしゃるでしょうが、馬は長距離・長時間走らせることはできないのだそうで、一人の飛脚が全行程を走りきるのが一番早かったのだそうです。
ここで少し考えましょう。飛脚は京都から大阪を経由して山陽道を岡山へ向かったはずですが、調べてみると距離は240kmにもなります!
飛脚の京都出発を21日の正午と仮定し、高松の陣当着を22日の夜の20時と仮定しますと、240kmを32時間で走破したことになります。恐るべし。
こんなことは現実に可能なのか? そこで調べてみました。
現代におけるトップランナーと比較してみましょう。フルマラソンは42kmですが、それを超えるウルトラマラソンというカテゴリーがありサロマ湖100km、四万十川100kmが有名ですし人気も高いです。参加者も多いのです(実は日本はこのクラスで世界トップレベルです)。しかし、これよりもさらに長いスーパーウルトラマラソンともいうべき大会もあります。日本ではこのクラスでは山口萩往還250kmという大会がメジャーだと思います。くしくも京都~岡山240kmとほぼ同距離です。
調べてみると去年のこの大会の優勝者は竹田賢治という方で記録は31時間24分でした。
なんと、戦国時代の飛脚の仮定タイムとほとんど同じではありませんか。ということは、飛脚は神でも化け物でもなく、生身の人間が京都~岡山の240kmを32時間くらいで走ることは十分にありえるということです。

ただしここで注意が必要なのです。私を含めて現代のマラソンランナーは、距離が長い大会で、ここ一番で記録を狙おうという大会に挑む際には事前に十分な準備をするということです。一年に一つか二つの大会に絞り、それに向けて何か月も前から十分な練習をつみます。大会直前になれば練習量を落として栄養をとり、マッサージやストレッチを入念に行い、酒も控えます。そして、大会前日には、カーボローディングといって炭水化物の多い食事を摂って早めに就寝します。精神的準備を整えることももちろんです。これらの準備が全てうまくいかないと好記録は望めないのです。前述の竹田賢治という優勝者も250kmに挑むにあたって綿密な計画の元で準備を進めたことと思います。
そしてもうひとつ、単純だけど重要なこととしては、そのようなパフォーマンスを発揮できる者は極めて限られているということです。たとえば、私自身には到底無理な話ですし、マラソンの有名選手といっても川内優輝選手でも無理だと思います。彼が早いのは42kmであって250kmというのは別種目と考えるべきです。適任者は日本中探してもそうたくさんはいません。
現代のランナーを例にして説明しましたが、戦国時代の飛脚も同じ人間ですから同様に考えるべきです。

さて、秀吉に飛脚を使って急を知らせた長谷川宗仁は、なぜ迅速な情報伝達を成功させたのでしょうか? それは、あらかじめ飛脚の中でも超長距離に向いたトップレベルの優秀な者をスカウトして囲っておき、6月21日あたりに大きな仕事をしてもらうから体調を十分に整えておくようにと指示していたとしか考えられないのです。もちろん他の仕事は断らせていたはず。
つまり、秀吉方の宗仁は本能寺の変を予見していたのでしょう。飛脚に持たせる書面も予め書いて用意していたかもしれません。それらは宗仁の独自の判断と言うより秀吉の指示で行ったと考える方が自然でしょう。
もし、何の備えもなくて本能寺の変に直面して慌てふためいてそのへんの飛脚にいきなり「明日中に備中の高松の陣までこの書面を届けてほしい」と依頼したところで、「お武家はん、無茶い言いはりまんなぁ」とか京都弁(?)でやんわり断られそうです。
結論、秀吉はやはり本能寺の変を予見していて、周到な準備を敷いていたと思うのです。

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