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神社と山の位置:関西中部編

神社と山の位置:関西中部編
== 鹿島神宮~富士山レイラインからの考察・その49==

ご訪問ありがとうございます。
一連の鹿島・富士レイラインの考察の第49回目です。


関西中部神社・山ライン

以前のブログで関東周辺の神社と火山の位置関係についてご紹介しましたが、今回はその続編ということで関西地方と中部地方について調べてみました。
神社は前回と同様に社格の高いものを中心に選んでいますが、京都中心部の神社(符号135~146)はあまりに過密なので検討対象外としました。
関西・中部地方には火山はほとんどないので、その代わりに霊山や信仰の山と言われる山を選びました。
結果は上図のとおりです。
関東周辺も驚きましたが関西方面はもっと凄いかもしれませんね。複雑でありながらも整然と並んでいるようで、幾何学的美しさをも感じてしまいます。
私は関東の住人ですが、今回の調査で関西の偉大さと奥深さを認識させられた気がします。

いくつか気になった点を。
・選定したほとんどすべての神社が線で他の神社と結ばれており、しかも多くは2以上の神社とつながっています。
・最も格式が高いのは志摩半島の伊勢神宮内宮124と外宮125ですが、これらに呼応するように対岸の渥美半島の根元の菟足神社105と安久美神戸神明社106が冬至日の入りラインで結ばれていました。
・紀伊半島の南端の潮岬を通る経度線上には若狭彦神社上社114、若狭姫神社下社115、斉明天皇陵A02、熊野本宮大社172、明治天皇陵A01などの目立つ施設があります。日本建国の地の橿原神宮160、平城京、平安京、藤原宮などもほぼこのライン上です。
斉明天皇陵A02は若狭彦神社上社114と潮岬のほぼ中間に位置します。
・明治天皇陵A01を通る経度線には伊勢神宮外宮125と伊弉諾神宮187があります。斉明天皇陵A02はこのほぼ中間に位置しており、ここがヘソの位置のようにも見えます。
・香川県ひがしかがわ市には極めて小規模のようですが「伊勢神宮」(190)という名称の神社がありました。規模は小さくてもその名前は無視できずにピックアップしました。
明治天皇陵A01および伊弉諾神宮187からみて立冬日の入り方向にあります。
・南紀白浜空港A03は気になる位置にあるのでとり上げました。
・若狭彦神社上社114と若狭姫神社下社115、金崎宮116と氣比神宮117、皇大神社148と豊受大神社149のように姉妹神社ともいうべき隣接する一対の神社はラインの中継ポイントのようにも見えます。



054:久津八幡宮(くづはちまんぐう、岐阜県、飛騨国二之宮)
066:砥鹿神社(とがじんじゃ、愛知県、三河国一之宮)
067:井伊谷宮(いいのやぐう、静岡県、官幣中社)
068:熱田神宮(あつたじんぐう、愛知県、官弊大社/三種の神器の1つ、草薙剣を祀る)
069:大県神社(おおあがたじんじゃ、愛知県、国弊中社)
101:真清田神社(ますみだじんじゃ、愛知県、尾張国一之宮)
102:尾張大国霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ、愛知県、国弊小社)
103:津島神社(つしまじんじゃ、愛知県、国弊小社)
104:猿投神社(さなげじんじゃ、愛知県、三河国三之宮)
105:菟足神社(うたりじんじゃ、愛知県、県社)
106:安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ、愛知県、県社)
107:知立神社(ちりゅうじんじゃ、愛知県、県社)
108:龍城神社(たつきじんじゃ、愛知県、県社)
109:伊賀八幡宮(いがはちまんぐう、愛知県、県社)
110:寺津八幡社(てらづはちまんしゃ、愛知県、県社)
111:神前神社(かみさき じんじゃ、愛知県、県社)
112:伊奈波神社(いなばじんじゃ、岐阜県、国弊小社)
113:南宮大社(なんぐうたいしゃ、岐阜県、美濃国一之宮)
114:若狭彦神社上社(わかさひこじんじゃかみしゃ、福井県、若狭国一之宮)
115:若狭姫神社下社(わかさひめじんじゃしもしゃ、福井県、若狭国一之宮)
116:金崎宮(かねがさきぐう、福井県、官弊中社)
117:氣比神宮(けひじんぐう、福井県、越前国一之宮)
118:剣神社(つるぎじんじゃ、福井県、越前国二之宮、国弊小社)
119:大虫神社(おおむしじんじゃ、福井県、県社)
120:多度大社(たどたいしゃ、三重県、国弊大社)
121:椿大神社(つばきおおかみやしろ、三重県、伊勢国一之宮/猿田彦神社とともに猿田神社本社)
122:都波岐奈加等神社(つばきじんじゃ、三重県、伊勢国一之宮)
123:敢國神社(あえくにじんじゃ、三重県、伊賀国一之宮)
124:伊勢神宮内宮(いせじんぐうないくう、三重県、最高格の神社)
125:伊勢神宮外宮(いせじんぐうげくう、三重県、最高格の神社)
126:猿田彦神社(さるたひこじんじゃ、三重県、別表社/椿大神社とともに猿田神社本社)
127:伊雑宮(いざわのみや、三重県、志摩国一之宮)
128:伊射波神社(いざわじんじゃ、三重県、志摩国一之宮)
129:花窟神社(はなのいわやじんじゃ、三重県、神話ゆかりの地/最古神社とも言われる)
130:多賀大社(たがたいしゃ、滋賀県、官弊大社)
131:近江神宮(おうみじんぐう、滋賀県、官弊大社)
132:日吉大社(ひよしたいしゃ、滋賀県、官弊大社/日吉・日枝・山王神社の総本社)
133:建部大社(たけべたいしゃ、滋賀県、近江国一之宮)
134:御上神社(みかみじんじゃ、滋賀県、官弊中社)
135:梅宮大社(うめのみやたいしゃ、京都府、官弊中社)
136:北野天満宮(きたのてんまんぐう、京都府、官弊中社/大宰府とともに天満宮総本社)
137:白峯神宮(しらみねじんぐう、京都府、官弊大社)
138:平野神社(ひらのじんじゃ、京都府、官弊大社)
139:茂別雷神社・上賀茂神社(かもわけいかづちじんじゃ・かみがもじんじゃ、京都府、山城国一之宮)
140:平安神宮(へいあんじんぐう、京都府、官弊大社)
141:吉田神社(よしだじんじゃ、京都府、官弊中社)
142:賀茂御祖神社・下鴨神社(かもみおやじんじゃ・しもがもじんじゃ、京都府、山城国一之宮)
143:大原野神社(おおはらのじんじゃ、京都府、官弊中社)
144:松尾大社(まつのおたいしゃ、京都府、官弊大社)
145:八坂神社(やさかじんじゃ、京都府、官弊大社/八坂神社の総本社)
146:伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ、京都府、官弊大社/秦氏の総氏神で/稲荷神社の総本社)
147:籠神社(このじんじゃ、京都府、丹後国一之宮/元伊勢)
148:皇大神社(こうたいじんじゃ、京都府、府社/元伊勢)
149:豊受大神社(とゆけだいじんじゃ、京都府、府社/元伊勢)
150:貴船神社(きふねじんじゃ、京都府、官弊中社/絵馬発祥/貴船神社の総本社)
151:出雲大神宮(いずもだいじんぐう、京都府、丹波国一之宮)
152:石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう、京都府、官弊大社/中世二所宗廟の1つ)
153:水無瀬神宮(みなせじんぐう、大阪府、官弊大社)
154:枚岡神社(ひらおかじんじゃ、大阪府、河内国一之宮)
155:坐摩神社(いかすりじんじゃ、大阪府、摂津国一之宮)
156:生国魂神社(いくくにたまじんじゃ、大阪府、官弊大社)
157:住吉大社(すみよしたいしゃ、大阪府、摂津国一之宮/住吉神社の総本社)
158:大鳥大社(おおとりたいしゃ、大阪府、和泉国一之宮)
159:龍田大社(たつたたいしゃ、奈良県、官弊大社)
160:橿原神宮(かしはらじんぐう、奈良県、官弊大社/日本建国の地)
161:廣瀬大社(ひろせたいしゃ、奈良県、官弊大社)
162:大神神社(おおみわじんじゃ、奈良県、大和国一之宮/三輪氏の総氏神/最古神社とも言われる)
163:石上神宮(いそのかみじんぐう、奈良県、官弊大社/物部氏の総氏神)
164:大和神社(おおやまとじんじゃ、奈良県、官弊大社)
165:春日大社(かすがたいしゃ、奈良県、官弊大社/藤原氏の総氏神)
166:丹生川上神社上社(にうかわかみじんじゃかみしゃ、奈良県、官弊大社)
167:丹生川上神社下社(にうかわかみじんじゃしもしゃ、奈良県、官弊大社)
168:吉野神宮(よしのじんぐう、奈良県、官弊大社)
169:葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ、奈良県、県社/葛城氏の総氏神/神話ゆかりの地)
170:丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ、和歌山県、紀伊国一之宮)
171:熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ、和歌山県、官弊大社)
172:熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ、和歌山県、官弊大社/熊野神社の総本山)
173:熊野那智大社(くまのなちたいしゃ、和歌山県、官弊中社)
174:竈山神社(かまやまじんじゃ、和歌山県、官弊大社)
175:日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう、和歌山県、紀伊国一之宮)
176:伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ、和歌山県、紀伊国一之宮)
177:出石神社(いずしじんじゃ、兵庫県、但馬国一之宮)
178:粟鹿神社(あわがじんじゃ、兵庫県、但馬国二之宮)
179:養父神社(やぶじんじゃ、兵庫県、但馬国三宮)
180:伊和神社(いわじんじゃ、兵庫県、播磨国一之宮)
181:荒田神社(あらたじんじゃ、兵庫県、播磨国二之宮)
182:住吉神社(すみよしじんじゃ、兵庫県、播磨国三之宮)
183:廣田神社(ひろたじんじゃ、兵庫県、官弊大社)
184:生田神社(いくたじんじゃ、兵庫県、官弊中社)
185:長田神社(ながたじんじゃ、兵庫県、官弊中社)
186:海神社(わたつみじんじゃ、兵庫県、官弊中社)
187:伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう、兵庫県、淡路国一之宮/イザナギの墓所/最古神社とも言われる)
188:大和大国魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ、兵庫県、淡路国二之宮 )
189:伊勢久留麻神社(いせくるまじんじゃ、兵庫県、淡路国三之宮 )
190:伊勢神宮(いせじんぐう、香川県)
V24:御嶽山(3067m、長野県/岐阜県、御嶽神社)
V41:恵那山(1895m、奈良県、恵那山神社)
V42:能郷白山(1617m、福井県、白山神社)
V43:伊吹山(1377m、滋賀県、伊吹神社)
V44:御在所岳(1210m、三重県、山岳寺)
V45:葛城山(959m、奈良県、葛城神社)
V46:大峰山(1719m、奈良県、大峰山上権現)
V47:大普賢岳(1915m、奈良県、大峰奥駆道)
V48:弥山(1895m、奈良県、弥山神社)
V49:釈迦ヶ岳(1800m、奈良県、釈迦如来像)
A01:明治天皇陵・伏見城(京都府)
A02:斉明天皇陵(奈良県)
A03:南紀白浜空港(和歌山県)


お断り
・石川県地方は有意なラインが少なく、長い半島を図面に組み入れる困難もあって省略させてもらいました。静岡県、長野県、富山県については以前のブログを参照してください。
・立冬の日の出・日の入り、冬至の日の出・日の入りについての調査をしましたが、今回は立夏および夏至については調査を省略しました。
・検証はドラフト用の紙地図上で行ってます。最初に基準線を設定して、定規を平行移動させて交点の有無を調べます。実際には日の出、日の入り方向は緯度によって平行でなく僅かにずれますので、誤差が発生しうることをご理解ください。(従来図も同様)
・また、地球は三次元球体ですので二次元地図上における日の出、日の入り方向は、実際には直線ではなくて曲線になります。しがたってラインが長くなるに従って僅かに誤差が発生します。(従来図も同様)
・さらに、できるだけ正確な作業を心がけていますが、定規の扱いや、紙上およびパソコン上での製図技量によっても誤差が含まれ得ます。(従来図も同様)

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松平秀康と保科正之の不思議な共通点<2>

松平秀康と保科正之の不思議な共通点<2>
ご訪問ありがとうございます。

前回は松平秀康と保科正之について簡単にご紹介いたしました。この二人がいかに似た人生を歩んだのか理解していただけたことと思います。あまりに似ていて不思議と言うより気持ち悪いくらいです。本人達だけではなくて家庭環境まで似通っているのですから。亡くなった年齢とかはだいぶ違うし、相違点ももちろんありますが類似点が多すぎます。
ある歴史家は保科正之と水戸光圀が似ていると指摘していましたが、光圀よりも秀康の方がの方がずっと似ていると思います。
正之は秀康が亡くなった4年後に生まれてますが、正之は秀康の孫の越前藩第四代藩主の松平光通とは幕府を補佐する上で協力関係にありました。不思議な縁です。
家光が48歳で他界して11歳の家綱が将軍職を後継することになったとき、諸大名は江戸城に集められました。そこで、正之と光通は一緒に進み出て諸将に向かってこう言い放ったといわれます。
「家綱様はまだ幼いから、天下を窺う者がいれば今が好機であるぞ。野心ある者は申し出よ。我々が踏み潰してくれようぞ」
と言って、諸大名を平伏させたそうです。何ともドラマチックなワンシーンですね。明治維新のときもそうでしたが、越前藩と会津藩はこのころから幕府を強力にバックアップしていたのです。

さて、秀康と正之については前回に簡単にご紹介させてもらいましたが、より分かりやすくするため共通点を箇条書きに抜き出してみます。

1.徳川将軍家の次男又は三男
2.母親(お静、お万)は女中であり、正室ではなかった
3.本来義母となるべき正室(築山御前、お江)は気が強く、父(家康、秀忠)は恐妻家になっていた
4.その正室の勘気にふれないように秀康も正之も城外で生まれ育てられた
5.生まれた後も実父にはなかなか会うことができず、または生涯会えなかった
6.家督を継ぐ可能性のあった正室の子で有能な異母兄(信康、忠長)が切腹させられている
7.関東周辺の国(結城、高遠)に養子に出されている
8.拠点が三度変えられている(秀康は大阪→結城→越前、正之は高遠→出羽→会津)
9.松平姓を許されても養子家の姓(結城、保科)を長く名のっていた
10.北関東(結城)または南東北(会津)の要衝の地の藩主を経験し、有事(関ヶ原、天草の乱)には北方の牽制役をした
11.将軍家を陰でサポートして、人格者の呼び声がたかかった
12.代表的事業のひとつに城下に水をひく用水路(芝原用水、玉川上水)の開削がある
13.重篤な病気(梅毒、白内障)を患って、それにより亡くなりまたは失明した
14.御三家に次ぐ「第4の家格」または「制外の家」とされる特別な藩(越前、会津)の藩祖となった
15.藩祖となった藩は徳川親藩として幕末まで続き、明治維新ではともに協力して佐幕派の中心となり、藩主(春嶽、容保)は養子ながら幕府存続ために尽力し、新政府軍には負けたが名君と慕われた



この二人、名君とも言われながら現代において知名度は高くないようです。その理由としては、将軍になったわけではなくてあくまでも裏方的仕事に徹したからなのでしょう。
二番目の理由としては、秀康の越後藩も正之の会津藩も明治維新で新政府軍に負けて「賊軍」のレッテルを貼られてしまったことです。明治政府は長州閥と薩摩閥に支配され、敗者側の藩の人物は顧みられなくなってしまったようです。
さらに、保科正之についてはもう一つ理由があります。彼は自分の死期が近くなると、自らの仕事に関する資料等を全て焼却させてしまいました。自分は家光と家綱に仕える裏方である、という強い自覚から自分の仕事の証拠を抹消させたのです。謙虚です。これにより、正之の業績はほとんどが家光または家綱が行った仕事とみなされるようになりました。
家光は鎖国や参勤交代制度の完成、武家諸法度の改正などを断行して徳川幕府の基盤を整備した名君と言われていますが、実はこれらの業績は正之のものだったかもしれません。
家光は実弟の忠長は切腹させていますが、異母弟の正之は信頼し重用していました。これは正之の実直な性格のためだったのでしょう。

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松平秀康と保科正之の不思議な共通点<1>

松平秀康と保科正之の不思議な共通点<1>
ご訪問ありがとうございます。
松平秀康・保科正之

徳川家血筋で名君でありともに雄藩の藩祖にもなった松平秀康と保科正之ですが、この叔父―甥の関係の両名ともご存知の方は少ないのではないでしょうか。
名君とは言っても二人とも将軍を支える裏方的な立場だったので残念ながら知名度は低いようですね。
実はこの目立たない二人、不思議なほど共通点が多いということに気づきまして、他に指摘している方もいないようなのでご紹介させてもらいます。なんだか生まれ変わりなんじゃないかと思われるほど似ていて面白いのです。
まずは二人を簡単にご紹介いたします。

〔1〕松平秀康(1574-1607)
別名を羽柴秀康または結城秀康。徳川家の初代将軍家康の次男。
異母兄弟に切腹させられた長男で有能だった信康や、第二代将軍となった三男の秀忠など。
母親は女中で側室となったお万で、信康を生んだ正室は築山御前。家康より年上の築山御前は今川家の娘であり、家康は政略的に結婚させられた。
良家から嫁いできた年上の築山御前は気位が高くて自分以外の側室を置くことを許さず、家康は恐妻家となる。家康は築山御前の目を盗んで女中のお万に手を出して懐妊させるも、城内では築山御前の目があるため城外に出て秘密裡に秀康を出産する。(双子説もあり)
秀康はその後も父家康との目通りはなかなかかなわず、初めて父に会えたのは3歳になってからだった。父に目通りがかなったのは兄信康の計らいであったらしい。家康のこのような冷遇は、秀康が当時嫌われていた双子による出生だったという説もある。
長男の信康は有能で家督を継ぐ立場であったが、実母の築山御前は滅亡した今川の出自であり、後ろだてを失ったことから武田方に接近したらしく、徳川と同盟していた織田信長から謀反を疑われる。そして築山御前とその実子の信康は切腹させられる。
これにより、次男の秀康は徳川家の世継ぎとなるはずであったが、豊臣方に実質的人質として養子に出される。ここで元服して秀吉と家康から一文字ずつ受けて「羽柴秀康」と命名される。
豊臣家と徳川家の関係が安定すると、家康が三河から江戸に国替えになるのを機に秀康は北関東の名家の結城家に養子に出されて藩主となり「結城秀康」と名のる。結城は10万石の規模ながら江戸から北方70kmの場所で東北地方との交通の要衝の地だった。
秀康はその立場から豊臣家と徳川家との橋渡し的役割を担い、人格的にも評価が高かった。
関ヶ原の戦いでは、東北地方の牽制を重視する家康の判断により、秀康は結城城に留まって上杉景勝の進出をおさえた。その結果、合戦に直接参加していないにも関わらず越前藩67万石に大幅に加増された。これは、関ヶ原後の論功行賞で最大の加増だった。
秀康の代表的事業のひとつに越前城下に水をひく芝原用水の開削が挙げられる。
秀康は越前松平家の藩祖となり、御三家や親藩などの枠組みを超えた「制外の家」としての特別扱いを受けた。
また、越前藩は地理的に加賀藩(100万石)の監視・牽制役でもあった。
秀康は「松平」姓を許されたが、養家への恩義から「結城」姓も使っていたとも言われる。
病気(梅毒)により34歳で亡くなるが、越前松平家は徳川親藩として幕末まで続き、明治維新では会津藩などとともに佐幕派の中心となり、藩主の松平春嶽は養子ながら幕府存続ために尽力した。
明治維新で100万石の加賀藩がほとんど目立った活躍ができなかったのは隣接する越前藩の存在があったためかもしれない。

〔2〕保科正之(1611-1673)
徳川家の第二代将軍秀忠の三男。
異母兄弟に第三代将軍となった長男の家光や、切腹させられた次男で有能だった忠長がいる。
母親は女中だったお静で、家光と忠長を生んだ正室はお江。秀忠より年上のお江は信長の姪でありすでに二度の婚歴があったが、秀忠は秀吉の命令により政略的に結婚させられた。
良家から嫁いできた年上のお江は気位が高くて自分以外の側室を置くことを許さず、秀忠は恐妻家となる。
秀忠はお江の目を盗んで女中のお静に手を出して懐妊させるも、城内ではお江の目があるため城外に出て秘密裡に正之を出産する。
正之はその後も父秀忠との目通りはなかなかかなわず、結局、終生父に直接会うことはできなかった。
正之は長く庶子の扱いであり、信州高遠藩の保科家に養子に出されて藩主となり「保科正之」と命名される。高遠藩は江戸から西方150kmの場所。
有能で一時は家督を継ぐとも目されていた次男の忠長は、駿府を収めていて駿河大納言と呼ばれていたが、将軍となっていた家光からいろいろの嫌疑をかけられて甲府への蟄居を命ぜられ、その後切腹させられている。
これにより、家光に兄弟は亡くなったと思われたが保科正之が異母弟であることが分かり、家光はこの僅実な弟正之を重用するようになる。正之は出羽山形藩20万石を拝領し、さらに会津藩に移封される。会津藩は公称23万石とされたが、それは25万石ほどの御三家との序列の関係上であり、実質は28万石だった。
正之は老中などの役職はなかったが、家光を補佐して実質的な副将軍となる。
正之はその立場から家光を補佐し、さらに家光亡き後は幼少の第四代将軍家綱の後見人として幕政を執り行った。正之の存在がなければ11歳で将軍職についた家綱の幕府の基盤は揺らいだかもしれない。
天草の乱では、東北地方の牽制を重視する家康以来の伝統的判断により、正之は江戸・会津に留まって東北諸藩の進出をおさえた。
正之の代表的事業のひとつに江戸に水をひく玉川上水の開削が挙げられる。
正之は会津松平家の藩祖となり、御三家に次ぐ「第四の家格」としての扱いを受けた。
正之は「松平」姓を許されたが、養家への恩義から「保科」姓を名のり続けた。
晩年は病気(白内障)により視力を失うが62歳まで生きる。
会津松平家は徳川親藩として幕末まで続き、明治維新では越前藩などとともに佐幕派の中心となり、藩主の松平容保は養子ながら幕府存続ために尽力した。



歴史上で同様に親族がトップの人間を裏から強くサポートしていた例としては、豊臣秀吉の弟の秀長、西郷隆盛の弟の従道と従兄弟の大山巌あたりが挙げらるでしょうか。

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戦時中から続く縦割り行政<2>

ご訪問ありがとうございます。
cop20部屋割り

前回は戦時中に陸軍と海軍が縦割り行政で反目しあっていたという話をしました。
では、それを教訓に今の日本では悪しき縦割り行政は解消されたのでしょうか?
そんなことはありませんね。縦割り行政は現在でも大健在の花盛りですよね。

ひと月以上前のことですが、ペルーで開催されているCOP20(国連気候変動枠組み条約第20回締約国会議)という国際会議で各国に割り振られた控室が、日本以外はそれぞれ一室ずつなのに我が国だけ7部屋も用意したという報道がありました。覚えている方も多いかと思います。
環境省、外務省、経済産業省がそれぞれ作業部屋と会議室を確保し、農林水産省と国土交通省が合同で作業部屋を一つ持つということです。上図のとおりで、ジョークではなくて事実なのだから悲しいですし、世界に対して恥をさらしました。各省は国益よりも省の都合を優先に考えていることは明らかでしょう。各省の間には文字通り「壁」が存在するのです。
当然、他国からは冷ややかな反応があったようです。日本の悪しき縦割り行政の象徴となってしまいましたが、この報道を見て太平洋戦争時の陸軍と海軍の反目を思い出しました。
民族気質というのは時代が変遷してもなかなか変わらないのだそうです。


「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」:先日亡くなった元ドイツ大統領のワイツゼッカーの言葉です。

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戦時中から続く縦割り行政<1>

ご訪問ありがとうございます。
ミッドウェー新聞報道

前回に太平洋戦争の話をしましたので今回もそれに関連した話を。
太平洋戦争の勃発した理由とかイデオロギー的な話はさておき日本はあの戦争にどうして負けたのでしょうか。「国力の違い」はもちろん、それ以外にもいくらでも挙げられそうですが、一つの理由として陸軍と海軍との反目、不毛な対抗意識、協力態勢のない勝手な行動があったのではないかと思います。それゆえ、合理的な作戦行動がとれなかったように感じられます。
陸軍と海軍は同じ日本軍という組織でありながら戦争と言う非常事態にあって協同歩調が求められるときに縦割り行政で全く別組織として行動していたのです。「統帥権」という明治憲法の欠陥のために軍部をまとめて取り仕切るべき者がいなかったのがその原因でしょうか。明治憲法は伊藤博文が実質的起草者で、それなりに良くできていたのでしょうけど「統帥権」だけは欠陥だったと思います。
「統帥権:天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」このわずか10文字の規定が陸軍と海軍に個別の暴走を許してしまいました。
陸軍と海軍は「統帥権」という制度で天皇の下、大本営という組織で統括されている建前でしたが、その中身は「陸軍部」と「海軍部」に完全に二分されていました。陸軍と海軍がいかに協力せず勝手に行動していたのか、いかに無駄に対抗していたのかいくつか書き出してみたいと思います。

1.陸軍部と海軍部に分かれていた大本営
上記の通り、日本軍を統合しているはずの大本営も実は陸軍部と海軍部に分かれていて作戦会議も別のようでしたし、情報もお互いに秘匿し合っていました。陸軍部と海軍部は建物も分かれていて、たしか市ヶ谷と六本木だったと思います。

2.海軍の戦果の発表に待ったをかける陸軍
開戦後間もない1942年1月11日、海軍の落下傘部隊はインドネシアのスラウェシ島への降下に成功します。当時は落下傘部隊は非常にめずらしく海軍はこれを国民に対して派手に発表しようとしますが、それを事前に知った陸軍は発表に待ったをかけます。陸軍が戦績で遅れをとっていると国民に思われたくなかったのです。
そして、陸軍は同2月14日に同じくインドネシアのスマトラ島のパレンバンに落下傘部隊の降下を成功させます。パレンバンは油田地帯であって、国民には後発の陸軍の活躍の方が目立つように見えました。海軍は面白くなかったでしょう。

3.ガダルカナル島を知らなかった陸軍
戦争の初期段階は日本は優勢でしたが、次第に劣勢に転移していきます。その潮目の一つとなったのがガダルカナル島争奪戦に敗れたことだったでしょう。海軍はガダルカナル島に南太平洋最前線の拠点となる極めて重要な航空基地を建設しましたが、1942年8月7日米軍の攻撃を受けて陸上戦が勃発します。日本と米国との初めての本格的陸上戦ですが、海軍には陸上戦を遂行する能力がないため困り果てて陸軍の応援を要請します。
このとき陸軍幹部はこの航空基地の存在はもちろん「ガダルカナル島」という島自体も知らず、海軍幹部の言う話がよく理解できなかったそうです。海軍はこの重要な航空基地の建設と存在を陸軍に全く明かしていなかったのです。
陸軍はガダルカナル島奪回に協力をしますが、当初米軍の実力を見くびっていて兵力を小出しにして甚大な損害を受けてしまいます。激戦の末、日本軍はガダルカナル島を放棄しました。

4.台湾沖航空戦の大誤報を陸軍に隠し通した海軍
これは酷い話なので少し詳しく。
戦争が長引き戦況が悪化することにより優秀なパイロットが戦死して数が減り、戦闘機も少なくなってきました。そこで、海軍は米国艦隊に夜間攻撃をしかけます。1944年10月12日の台湾沖航空戦です。少しでも敵に見つかりにくく、撃ち落とされにくいと考えたのでしょう。
その結果は、惨敗で残り少なくなっていた航空精鋭部隊はほぼ壊滅させられる一方、敵艦隊の損害は軽微でした。このころには米国はレーダーとVT信管(命中しなくても目標物近くで爆発して損害を与える)を実用化させて実戦投入していたのが効果を発揮したようです。
しかし、問題はさらにこの後のことで大本営では「敵の機動部隊をほぼ全滅させた」と発表してしまったのです。
なぜ、そんな正反対のでたらめ発表になったのかと言えば、夜間でしかも未熟な搭乗員には戦果確認が難しかった、内地に戦勝報告をしたいという前線の心理、報告を受けた本土海軍上層部も疑問をいだきながらも10月の予算配分の時期であり陸軍を牽制したかった、などの多くの理由が重なったと言われてます。
陸軍指揮官でマレーの虎とも呼ばれた逸話の多い山下奉文大将は、フィリピンでこの発表を聞きますが信じなく、まわりの人に「だって、(敵空母機が)飛んでるじゃないか」と言ったそうです。他にも不自然な大勝利の戦果に疑問を呈する人たちもいましたが、それらの声は無視されました。
この大本営の発表の影響は大きく、天皇からは勅語が発せられ、国民はちょうちん行列を催し、ヒトラーからは祝電が届き、米国内の株は暴落します。
しかししかし、本当の大問題はさらにこの後でした。南方軍総司令官の寺内寿一大将はこの大誤報を信じきってしまい、この機をのがさず陸軍を大反転攻勢に打って出させることを決断しました。準備不足にもかかわらず8万4千人の兵を繰り出しますが、健在の米軍にたたかれて実に95%の8万人が戦死してしまいます。無謀と言われた悪名高いインパール作戦の戦死90%を上回る壊滅的被害でした。
一方の海軍は台湾沖航空戦の後すぐに発表した戦果が全くの誤報だったと気づきますが、国民にも陸軍にも知らせることはありませんでした。敵を壊滅させた大戦果のはずが全くの大嘘だったとは、それこそ国民、陸軍そして天皇から大バッシングを受けるでしょうからメンツがあって言い出せなかったのでしょう。
海軍幹部にとっては陸軍兵士8万人の命よりも自分たちのメンツが大事で、その結果がどうなろうとその場をしのぐことができれば良かったのです。そしてダンマリをきめこんでしまいました。

5.ミッドウェー海戦の惨敗を知らなかった東条英機
東条英機は陸軍大将であり、陸軍大臣であり、参謀総長であり、そして開戦直前から約2年半の間総理大臣を務めていました。
後世の私たちが戦時中の歴史を学ぶと、日本は敗戦色が濃くなってきても東条英機が頑迷に戦争を継続させていたように映ります。それはある意味正しいのでしょうけど、実は陸軍派の東条は海軍がどれほど負けているのか実情を知らなかったのかもしれません。それで判断を誤り続けた可能性もあると思います。
ミッドウェー海戦は日本が虎の子の大型空母4隻をすべて沈没させられた大敗戦でしたが、東条は少なくともこの海戦の大敗を知りませんでした。彼がミッドウェー海戦がどのようなものだったのかを知ったのは、戦後に捕えられて巣鴨拘置所に入ってからだったと言います。ミッドウェー海戦について真実を聞いた彼は呆然としていたそうです。
冒頭の画像はミッドウェー海戦について報じた当時の新聞です。なんだか大勝利のように錯覚してしまいますね。



このように見直してみると、戦争中も我が国は「縦割り行政」の弊害を蒙っていたことがわかりますね。
陸軍にとっては中国軍よりも海軍に負けないことが大事で、海軍にとっては米軍よりも陸軍に負けないことを優先していたのではないか、とさえ思えてしまいます。
縦割り行政もひどいのですが、それとともに日本人の根本的気質にも問題があったのではないでしょうか。
これを言うと反発を受けるかもしれませんが、日本人はどうも本来的本質の目的や課題をないがしろにして、その場だけを一時的に繕うという傾向があるように見えてしかたないのです。そして本来の目的の達成が不十分になるとも、いまその時点でたまたま身の回りにいる人たちだけに対して体裁よくあるいは格好よく振舞おうとし、又は、いまその時点でたまたま身の回りにいる人たちだけに対して陳腐で無駄な対抗意識を発揮させているのではないでしょうか。近視眼的で時間的または空間的にはなれた箇所に与える影響や結果をあまり考慮していないようです。
それは過去のエリート軍人だけでなく現代人も全く同じであるように感じます。あえて例示はしませんが私は実生活でそういう例をたくさん見聞きしてきました。
「ええ恰好シイ」で、本質よりも体裁や安っぽい見栄とメンツを優先する人が多くないでしょうか。
日本が戦争に負けた理由の一つなのかもしれない、と感じてしまいます。
反感を覚える方もいらっしゃるかもしれませんが、あくまで私感です。

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