
松平秀康と保科正之の不思議な共通点<2>
ご訪問ありがとうございます。
前回は松平秀康と保科正之について簡単にご紹介いたしました。この二人がいかに似た人生を歩んだのか理解していただけたことと思います。あまりに似ていて不思議と言うより気持ち悪いくらいです。本人達だけではなくて家庭環境まで似通っているのですから。亡くなった年齢とかはだいぶ違うし、相違点ももちろんありますが類似点が多すぎます。
ある歴史家は保科正之と水戸光圀が似ていると指摘していましたが、光圀よりも秀康の方がの方がずっと似ていると思います。
正之は秀康が亡くなった4年後に生まれてますが、正之は秀康の孫の越前藩第四代藩主の松平光通とは幕府を補佐する上で協力関係にありました。不思議な縁です。
家光が48歳で他界して11歳の家綱が将軍職を後継することになったとき、諸大名は江戸城に集められました。そこで、正之と光通は一緒に進み出て諸将に向かってこう言い放ったといわれます。
「家綱様はまだ幼いから、天下を窺う者がいれば今が好機であるぞ。野心ある者は申し出よ。我々が踏み潰してくれようぞ」
と言って、諸大名を平伏させたそうです。何ともドラマチックなワンシーンですね。明治維新のときもそうでしたが、越前藩と会津藩はこのころから幕府を強力にバックアップしていたのです。
さて、秀康と正之については前回に簡単にご紹介させてもらいましたが、より分かりやすくするため共通点を箇条書きに抜き出してみます。
1.徳川将軍家の次男又は三男
2.母親(お静、お万)は女中であり、正室ではなかった
3.本来義母となるべき正室(築山御前、お江)は気が強く、父(家康、秀忠)は恐妻家になっていた
4.その正室の勘気にふれないように秀康も正之も城外で生まれ育てられた
5.生まれた後も実父にはなかなか会うことができず、または生涯会えなかった
6.家督を継ぐ可能性のあった正室の子で有能な異母兄(信康、忠長)が切腹させられている
7.関東周辺の国(結城、高遠)に養子に出されている
8.拠点が三度変えられている(秀康は大阪→結城→越前、正之は高遠→出羽→会津)
9.松平姓を許されても養子家の姓(結城、保科)を長く名のっていた
10.北関東(結城)または南東北(会津)の要衝の地の藩主を経験し、有事(関ヶ原、天草の乱)には北方の牽制役をした
11.将軍家を陰でサポートして、人格者の呼び声がたかかった
12.代表的事業のひとつに城下に水をひく用水路(芝原用水、玉川上水)の開削がある
13.重篤な病気(梅毒、白内障)を患って、それにより亡くなりまたは失明した
14.御三家に次ぐ「第4の家格」または「制外の家」とされる特別な藩(越前、会津)の藩祖となった
15.藩祖となった藩は徳川親藩として幕末まで続き、明治維新ではともに協力して佐幕派の中心となり、藩主(春嶽、容保)は養子ながら幕府存続ために尽力し、新政府軍には負けたが名君と慕われた
この二人、名君とも言われながら現代において知名度は高くないようです。その理由としては、将軍になったわけではなくてあくまでも裏方的仕事に徹したからなのでしょう。
二番目の理由としては、秀康の越後藩も正之の会津藩も明治維新で新政府軍に負けて「賊軍」のレッテルを貼られてしまったことです。明治政府は長州閥と薩摩閥に支配され、敗者側の藩の人物は顧みられなくなってしまったようです。
さらに、保科正之についてはもう一つ理由があります。彼は自分の死期が近くなると、自らの仕事に関する資料等を全て焼却させてしまいました。自分は家光と家綱に仕える裏方である、という強い自覚から自分の仕事の証拠を抹消させたのです。謙虚です。これにより、正之の業績はほとんどが家光または家綱が行った仕事とみなされるようになりました。
家光は鎖国や参勤交代制度の完成、武家諸法度の改正などを断行して徳川幕府の基盤を整備した名君と言われていますが、実はこれらの業績は正之のものだったかもしれません。
家光は実弟の忠長は切腹させていますが、異母弟の正之は信頼し重用していました。これは正之の実直な性格のためだったのでしょう。
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前回は松平秀康と保科正之について簡単にご紹介いたしました。この二人がいかに似た人生を歩んだのか理解していただけたことと思います。あまりに似ていて不思議と言うより気持ち悪いくらいです。本人達だけではなくて家庭環境まで似通っているのですから。亡くなった年齢とかはだいぶ違うし、相違点ももちろんありますが類似点が多すぎます。
ある歴史家は保科正之と水戸光圀が似ていると指摘していましたが、光圀よりも秀康の方がの方がずっと似ていると思います。
正之は秀康が亡くなった4年後に生まれてますが、正之は秀康の孫の越前藩第四代藩主の松平光通とは幕府を補佐する上で協力関係にありました。不思議な縁です。
家光が48歳で他界して11歳の家綱が将軍職を後継することになったとき、諸大名は江戸城に集められました。そこで、正之と光通は一緒に進み出て諸将に向かってこう言い放ったといわれます。
「家綱様はまだ幼いから、天下を窺う者がいれば今が好機であるぞ。野心ある者は申し出よ。我々が踏み潰してくれようぞ」
と言って、諸大名を平伏させたそうです。何ともドラマチックなワンシーンですね。明治維新のときもそうでしたが、越前藩と会津藩はこのころから幕府を強力にバックアップしていたのです。
さて、秀康と正之については前回に簡単にご紹介させてもらいましたが、より分かりやすくするため共通点を箇条書きに抜き出してみます。
1.徳川将軍家の次男又は三男
2.母親(お静、お万)は女中であり、正室ではなかった
3.本来義母となるべき正室(築山御前、お江)は気が強く、父(家康、秀忠)は恐妻家になっていた
4.その正室の勘気にふれないように秀康も正之も城外で生まれ育てられた
5.生まれた後も実父にはなかなか会うことができず、または生涯会えなかった
6.家督を継ぐ可能性のあった正室の子で有能な異母兄(信康、忠長)が切腹させられている
7.関東周辺の国(結城、高遠)に養子に出されている
8.拠点が三度変えられている(秀康は大阪→結城→越前、正之は高遠→出羽→会津)
9.松平姓を許されても養子家の姓(結城、保科)を長く名のっていた
10.北関東(結城)または南東北(会津)の要衝の地の藩主を経験し、有事(関ヶ原、天草の乱)には北方の牽制役をした
11.将軍家を陰でサポートして、人格者の呼び声がたかかった
12.代表的事業のひとつに城下に水をひく用水路(芝原用水、玉川上水)の開削がある
13.重篤な病気(梅毒、白内障)を患って、それにより亡くなりまたは失明した
14.御三家に次ぐ「第4の家格」または「制外の家」とされる特別な藩(越前、会津)の藩祖となった
15.藩祖となった藩は徳川親藩として幕末まで続き、明治維新ではともに協力して佐幕派の中心となり、藩主(春嶽、容保)は養子ながら幕府存続ために尽力し、新政府軍には負けたが名君と慕われた
この二人、名君とも言われながら現代において知名度は高くないようです。その理由としては、将軍になったわけではなくてあくまでも裏方的仕事に徹したからなのでしょう。
二番目の理由としては、秀康の越後藩も正之の会津藩も明治維新で新政府軍に負けて「賊軍」のレッテルを貼られてしまったことです。明治政府は長州閥と薩摩閥に支配され、敗者側の藩の人物は顧みられなくなってしまったようです。
さらに、保科正之についてはもう一つ理由があります。彼は自分の死期が近くなると、自らの仕事に関する資料等を全て焼却させてしまいました。自分は家光と家綱に仕える裏方である、という強い自覚から自分の仕事の証拠を抹消させたのです。謙虚です。これにより、正之の業績はほとんどが家光または家綱が行った仕事とみなされるようになりました。
家光は鎖国や参勤交代制度の完成、武家諸法度の改正などを断行して徳川幕府の基盤を整備した名君と言われていますが、実はこれらの業績は正之のものだったかもしれません。
家光は実弟の忠長は切腹させていますが、異母弟の正之は信頼し重用していました。これは正之の実直な性格のためだったのでしょう。
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