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司馬「関ヶ原」を読んで<5>

司馬「関ヶ原」を読んで<5>
== 関ヶ原と幕末討幕運動 ==

ご訪問ありがとうございます。

多少日本史に素養のある方ならば、幕末討幕運動と明治維新を中心的になしとげた薩摩、長州、土佐の各藩はその昔の関ヶ原の戦いで敗者となった側で、江戸時代の260年間臥薪嘗胆耐えて黒船来襲で幕府の力が弱ったときに一期にため込んでいたエネルギーを爆発させて幕府を転覆させ長年の雪辱を果たした、と言われていることはご存知でしょう。
私もそのように考えていました。
しかし、今回改めて司馬の「関ヶ原」を読み直してみると、なんかちょっと違うような違和感を感じたので書き留めておきたいと思います。



というのも、上記した薩摩、長州、土佐の各藩が明治維新の立役者となったことは明らかですが、関ヶ原の戦いではどうだったのかということです。
この三藩は敗者側の西軍に属してはいましたが、ほとんど活躍していなかったのですね。もっと言えば、これらのうちいずれかの一藩か二藩でも東軍と普通に戦っていれば西軍は負けなかった公算が強いと思います。
順に見ていきましょう。

〔長州・毛利軍の場合〕
毛利軍は西軍最大の勢力でしたからこの活躍次第で戦況は大きく変わります。
毛利は良く知られているように「三本の矢(サンフレッチェ)」と言われ、毛利家を吉川家・小早川家の両家で支える三家体制でした。そして外交に関しては豊臣びいきの安国寺恵瓊が取り仕切っています。
小早川家は秀吉の正室の甥の秀秋を養子として迎え入れてしまったので毛利とはちょっと距離ができてしまいましたが、吉川家は継続的に毛利家を補佐していました。
毛利は凡庸な当主である輝元が大阪城から動かず、関ヶ原の実戦部隊は従兄弟の毛利秀元が受け持つが、実際上の指揮権は吉川広家がとりました。そして、広家は不仲の安国寺に対する反発もあって毛利軍を山に登らせてしまいそのまま全く動かすことなく西軍を見殺しにしました。
さらに、小早川家にあっては東軍に寝返って、それまで善戦していた西軍に襲い掛かり勝敗の帰趨をひっくり返してしました。
「三本の矢」といわれる毛利・吉川・小早川の行動こそが西軍敗退の一大敗因をなしたのです。

〔薩摩・島津軍の場合〕
島津軍は遠国ということもあって千数百だけの軍勢しか連れてきませんでしたが、朝鮮出兵時でも大きな戦功をあげたように島津兵は精鋭であり、その働き次第では大きな戦力になりうるはずでした。
しかし、島津は当初は東軍に味方するつもりだったのがうまくいかず、中立することもできずに流れによって西軍に組み込まれてしまいます。
それでも、男気のある薩摩隼人はいざ戦さとなれば存分の働きをするはずでした。
ところが、人との接し方の下手な石田三成は戦の直前に島津入道の機嫌を損ねてしまいます。結局、怒った島津は西軍が完全に敗北するまで全く戦わず静観し、むしろ自陣に逃げ込んでくる西軍(宇喜多隊)に銃撃をあびせて追い払うという信じがたい行動までします。
いくら、三成の態度が悪くて気分を害したからといって、それを理由に天下分け目の決戦という状況で仕事を放棄するというのは大人の態度ではないと思いますし、逆に友軍を追い払ってしまうというのは人間としてどうなのでしょうか。
関ヶ原後に薩摩は逃亡中だった宇喜多秀家を一時的に匿いますが、それはまた別の話でしょう。

〔土佐・長曾我部軍の場合〕
四国南部の長曾我部は中央の情勢と外交に疎く東軍と西軍のどちらに味方するか迷い、一度は家康方につこうとしますがうまくいかずに結局西軍に組み込まれます。
一度は四国を平定した長曾我部ですからその力は強大で、西軍のために尽力しようと決意します。
しかしながら毛利軍のすぐ近くに布陣することになった長曾我部は毛利が動かないためにその動向が気になり、毛利側の吉川広家からも西軍に味方しないようにと示唆され、逆に毛利から背後を突かれる懸念から立ちすくんでしまいます。
結局、長曾我部も関ヶ原まで行ったものの何もしないうちに敗戦となりただ逃げ帰るだけとなりました。
また、毛利や島津とは違って懲罰も厳しくて土佐全領を召し上げられ、長曾我部家は土佐から追い出されて謹慎処分となりました。



このように長州、薩摩、土佐の各藩は関ヶ原の戦いでは何の仕事もせず、むしろ西軍の足を引っ張るだけの存在でした。そこにいないほうがよほど西軍のためになったでしょう。
土佐の長曾我部には少し同情もありますが、毛利と島津には許しがたい気持ちがします。
西軍で奮迅の働きをみせたのは石田軍、大谷軍、宇喜多軍、小西軍と、関ヶ原からは遠く離れていましたが信州の真田軍でしょう。

繰り返しますが長州、薩摩、土佐は関ヶ原で何もしていません。ただ戦さ見物をしていただけです。毛利の支族の小早川にいたっては東軍に寝返りました。それ以外の毛利、薩摩、土佐も間接的に東軍に寄与していたのです。
ですから、260年後の幕末に関ヶ原の雪辱を果たしたというのは全く筋違いの話と言わざるをえませんし、敗者の美学を装うべきではありませんでした。明治維新後の薩長出身者の専横ぶりも見苦しいものがありました。
もし本当に長い年月を経て関ヶ原の借りを返したと言うのなら、薩長独占の政府を樹立して甘い汁をすするのではなく、豊臣家や石田、大谷、宇喜多、小西らの子孫や遠縁を探し出して、最低限な形式だけでも迎え入れるべきだったでしょうが、そのような形跡はありません。
薩摩、長州、土佐が江戸時代にずっと関ヶ原の雪辱に燃えていてエネルギーをため込んでいたというのは事実かもしれませんが、関ヶ原では自分たちがサボタージュしたせいで西軍が負けてしまったのに、それを省みることもなくちょっと自己中心的わがままな考えだったような気がします。

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