
富士山本宮浅間大社~鹿島神宮
== 鹿島神宮~富士山レイラインからの考察・その24 ==
みなさんこんにちは。ご訪問に感謝します。
一連の鹿島・富士レイラインのトピックの24回目です。

(当ブログは画像だけの閲覧も歓迎します)
〇富士山本宮浅間大社について
富士山は神聖な山とされています。富士山は裾野の広い美しい山で古代の人はその容姿に神秘性を感じたのでしょうし、その気持ちは我々現代人にも通ずるものがあるでしょう。
ところで、神聖な山であるならばそれを祀る神社が当然にあるはずですね。それが日本中に散在し、主に富士山周辺に多い浅間神社です。富士山の頂上には富士山頂上浅間大社奥宮がありますが、これは名前が示す通り本社ではなくて富士宮市にある富士山本宮浅間大社が本社であって頂上の神社はこの奥宮です。つまり、富士山本宮浅間大社から頂上にいたるまでの富士登山道の富士宮ルートは奥参道ということなのですね。おそらく日本で一番険しく厳しい参道ではないでしょうか。
富士山本宮浅間大社は全国に数多く存在する浅間神社の総本社であって、富士山自体を祀るとともにコノハナサクヤ姫という女神を主祭神としています。コノハナサクヤ姫は天孫降臨で高千穂に降り立った天津神のニニギノミコトの妃となった神様です。ニニギノミコトが一目ぼれしたという美人の神様みたいです。
ちなみに、いろいろの活躍をして高天原からニニギノミコトに随ってきたアメノウズメは、可哀想ですが結局ニニギとは結ばれなかったのです。アマテラスは二神を一緒にさせようと考えていたんじゃないかなぁ。
〇富士山本宮浅間大社から見て鹿島神宮は立夏の日の出方向
この一連のトピックは鹿島神宮から見て立冬の日の入り方向に富士山があり、その鹿島~富士レイライン上に皇居や東京スカイツリーなど様々な特徴的施設が存在することから話が始まってます。また、前回のブログでは武蔵野天皇陵から見て富士山は冬至の日の入り方向にあたることをご紹介しました。富士山といえば神聖な山であって、それにあやかろうという気持ちがこれらの不思議な配置の根本原理となっているのでしょう。
ところで、鹿島神宮は富士山を強く意識しているように思えるのですが、「それなら富士山の頂上だけではなく浅間大社ともなんらかの関係があるかもしれない」と思い少し調べてみると、上図のとおり富士山本宮浅間大社から見て鹿島神宮は立夏の日の出方向となっていました。誤差はとても小さいです。
富士山本宮浅間大社と鹿島神宮のどちらが古いのかは知りませんが、前者の方が鹿島神宮を基準に立夏ラインに合わせて場所の選定をしたように思えます。そういう縛りがなければ浅間大社はもっと富士山の真南の好位置を選ぶと思うのです。立夏ライン上で、且つご神体の富士山にあまり深く入り込まない位置とすると、ほぼ自動的に現在の浅間大社の場所になります。
なお、この富士山本宮浅間大社~鹿島神宮を結ぶ立夏ラインは都心部を通っていますが、そのライン上にはあまり目立つ施設は見つかりませんでした。逆に言えば、それだけ鹿島~富士レイラインや東経139度38分線などが特殊だということの証左になると思います。
〇富士山本宮浅間大社とコノハナサクヤ姫
富士山本宮浅間大社の主祭神はコノハナサクヤ姫ですが、大社の公式サイトではその別名を「浅間大神」としています。
何かで読んだのですが、この浅間大神は元々は富士山を神格化した神様でコノハナサクヤ姫とは関係がなかったようです。その証拠に浅間大社の本殿の作りは(詳細は省略しますが)男神を祀る型式になっています。
そもそも「浅間」とは火山のことを意味するのであって女神様とはあまり馴染みにくいです。一説には、古代に阿蘇山が盛んに噴火をしていて火山=阿蘇山というイメージがあったそうで、「あそやま」がなまって「あさま」に変化したとのだとか。
では、なぜコノハナサクヤ姫が浅間大社や全国の浅間神社の主祭神となったのでしょうか。それはたぶん、富士山もコノハナサクヤ姫も「美しい」という共通点からだったのではないでしょうか。勝手な想像ですが。
ところで、ニニギノミコトとコノハナサクヤ姫の子孫が天皇家につながっていくのですが、なぜ天津神の子孫なのに寿命があるのでしょうか。それは、コノハナサクヤ姫は「木ノ花」つまり桜が「咲く」ように美しかったのですが、同時に桜の花ように短い寿命しかなかったためだと神話は伝えています。ニニギノミコトは本来はコノハナサクヤ姫と一緒に姉のイワナガ姫も娶るべきだったのです。イワナガ姫は「岩」のようで美しくはなかったけれども岩のように「長」い寿命を持っていたのです。
元々富士山自体を祀っていた浅間大社ですが、今ではコノハナサクヤ姫を主祭神としています。
このことが、富士山もコノハナサクヤ姫のように美しいけれども短い寿命しかない、つまり火山を示す「浅間」の名前の通りに噴火して形を変え、あるいは消滅してしまうことを暗示しているのでなければ良いのですが。
== 鹿島神宮~富士山レイラインからの考察・その24 ==
みなさんこんにちは。ご訪問に感謝します。
一連の鹿島・富士レイラインのトピックの24回目です。

(当ブログは画像だけの閲覧も歓迎します)
〇富士山本宮浅間大社について
富士山は神聖な山とされています。富士山は裾野の広い美しい山で古代の人はその容姿に神秘性を感じたのでしょうし、その気持ちは我々現代人にも通ずるものがあるでしょう。
ところで、神聖な山であるならばそれを祀る神社が当然にあるはずですね。それが日本中に散在し、主に富士山周辺に多い浅間神社です。富士山の頂上には富士山頂上浅間大社奥宮がありますが、これは名前が示す通り本社ではなくて富士宮市にある富士山本宮浅間大社が本社であって頂上の神社はこの奥宮です。つまり、富士山本宮浅間大社から頂上にいたるまでの富士登山道の富士宮ルートは奥参道ということなのですね。おそらく日本で一番険しく厳しい参道ではないでしょうか。
富士山本宮浅間大社は全国に数多く存在する浅間神社の総本社であって、富士山自体を祀るとともにコノハナサクヤ姫という女神を主祭神としています。コノハナサクヤ姫は天孫降臨で高千穂に降り立った天津神のニニギノミコトの妃となった神様です。ニニギノミコトが一目ぼれしたという美人の神様みたいです。
ちなみに、いろいろの活躍をして高天原からニニギノミコトに随ってきたアメノウズメは、可哀想ですが結局ニニギとは結ばれなかったのです。アマテラスは二神を一緒にさせようと考えていたんじゃないかなぁ。
〇富士山本宮浅間大社から見て鹿島神宮は立夏の日の出方向
この一連のトピックは鹿島神宮から見て立冬の日の入り方向に富士山があり、その鹿島~富士レイライン上に皇居や東京スカイツリーなど様々な特徴的施設が存在することから話が始まってます。また、前回のブログでは武蔵野天皇陵から見て富士山は冬至の日の入り方向にあたることをご紹介しました。富士山といえば神聖な山であって、それにあやかろうという気持ちがこれらの不思議な配置の根本原理となっているのでしょう。
ところで、鹿島神宮は富士山を強く意識しているように思えるのですが、「それなら富士山の頂上だけではなく浅間大社ともなんらかの関係があるかもしれない」と思い少し調べてみると、上図のとおり富士山本宮浅間大社から見て鹿島神宮は立夏の日の出方向となっていました。誤差はとても小さいです。
富士山本宮浅間大社と鹿島神宮のどちらが古いのかは知りませんが、前者の方が鹿島神宮を基準に立夏ラインに合わせて場所の選定をしたように思えます。そういう縛りがなければ浅間大社はもっと富士山の真南の好位置を選ぶと思うのです。立夏ライン上で、且つご神体の富士山にあまり深く入り込まない位置とすると、ほぼ自動的に現在の浅間大社の場所になります。
なお、この富士山本宮浅間大社~鹿島神宮を結ぶ立夏ラインは都心部を通っていますが、そのライン上にはあまり目立つ施設は見つかりませんでした。逆に言えば、それだけ鹿島~富士レイラインや東経139度38分線などが特殊だということの証左になると思います。
〇富士山本宮浅間大社とコノハナサクヤ姫
富士山本宮浅間大社の主祭神はコノハナサクヤ姫ですが、大社の公式サイトではその別名を「浅間大神」としています。
何かで読んだのですが、この浅間大神は元々は富士山を神格化した神様でコノハナサクヤ姫とは関係がなかったようです。その証拠に浅間大社の本殿の作りは(詳細は省略しますが)男神を祀る型式になっています。
そもそも「浅間」とは火山のことを意味するのであって女神様とはあまり馴染みにくいです。一説には、古代に阿蘇山が盛んに噴火をしていて火山=阿蘇山というイメージがあったそうで、「あそやま」がなまって「あさま」に変化したとのだとか。
では、なぜコノハナサクヤ姫が浅間大社や全国の浅間神社の主祭神となったのでしょうか。それはたぶん、富士山もコノハナサクヤ姫も「美しい」という共通点からだったのではないでしょうか。勝手な想像ですが。
ところで、ニニギノミコトとコノハナサクヤ姫の子孫が天皇家につながっていくのですが、なぜ天津神の子孫なのに寿命があるのでしょうか。それは、コノハナサクヤ姫は「木ノ花」つまり桜が「咲く」ように美しかったのですが、同時に桜の花ように短い寿命しかなかったためだと神話は伝えています。ニニギノミコトは本来はコノハナサクヤ姫と一緒に姉のイワナガ姫も娶るべきだったのです。イワナガ姫は「岩」のようで美しくはなかったけれども岩のように「長」い寿命を持っていたのです。
元々富士山自体を祀っていた浅間大社ですが、今ではコノハナサクヤ姫を主祭神としています。
このことが、富士山もコノハナサクヤ姫のように美しいけれども短い寿命しかない、つまり火山を示す「浅間」の名前の通りに噴火して形を変え、あるいは消滅してしまうことを暗示しているのでなければ良いのですが。
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