
アマテラスの岩戸隠れは冬至だった
みなさんこんにちは。
師走、年の瀬ですね。明日は冬至、一年で一番日の短い日です。今日の東京の日の出は6時47分だそうです。
もう少しするとクリスマスがあって、さらにもう少しすると年明けになります。
「盆と暮れがいっしょにやってくる」ことはないけど、「クリスマスと暮れ」はいっしょにやってくるのです。
日の出がもっとも遅くなるのは1月上旬で6時51分(東京)だそうで、なかなか日が昇らない。少しだけ早起きすれば初日の出が見られるわけですが、初日の出を待っていると意外に遅いと感じたことはないでしょうか。太陽系の仕組みを知っている現代人は太陽が昇らないことはないと安心していられるわけですが、それでも時計を見ながら「まだかよ、本当に出てくるのか?」なんて冗談を言ったことはありませんか。
ところで、クリスマスも新年もこの時期ほぼ同時にやってくるのは偶然ではなくて、冬至を過ぎて日が長くなり始めることを祝う世界各地の風習から必然のことなのだという話を聞いたことがあります。
つまり、勢いをなくしつつあった太陽がふたたび活気をとりもどして生き返る時期であることから、「信仰対照の太陽が生まれる時期」が「キリストが生まれた日」に変化してクリスマスのイベントに発展し、さらに太陽の生まれ変わりとしての新たな年の初め、太陽暦の最初の日として選ばれるようになったということです。
電燈も暖房もない古代の人々にとっては、毎年のこととはいえ太陽がなかなか登らなくなって暗く寒くなるこの時期は不安で仕方なかったのではないでしょうか。太陽がちゃんと昇ってくるかどうかは切実な心配事だったかもしれません。
きっと、毎朝の日の出を見ては太陽が勢いを取り戻してくれるように真剣に祈ったことでしょう。そしてやっと冬至を過ぎて日が長くなり始めると、それはそれは安堵しただろうし嬉しくて、お祝いをするとともに太陽に感謝をささげたことと思います。
〇アマテラスの岩戸隠れ神話
アマテラスの岩戸隠れは古事記に書かれている日本神話の中でも一番有名なエピソードではないでしょうか。
一応簡単に紹介しますと、
高天原で乱暴をはたらいた弟のスサノオに恐れをなした姉のアマテラスは洞窟に隠れて入口を岩で塞いでしまい、この世が真っ暗になるとともにトラブルが次々に起こるようになりました。困った神々は河原に集まりオモイカネを議長役として相談し、盛大なお祭りをやってアマテラスを外におびき出すことにしました。こまごまとした準備の後にお祭りが始まりました。このお祭りで活躍したのがアマノウズメという女神でお色気たっぷりのダンスを披露して男神達がおおいに受けて盛り上がり、それにつられてアマテラスもついつい入口を塞いでいた岩を少し開けました。
少し開け放たれた隙間には八咫鏡が置かれており、鏡に映った自分の姿を見てアマテラスは自分と同じような高貴な神がいると錯覚して驚いてスキができます。そこでアメノタヂカラオという怪力の神がアマテラスの腕をつかんで外に引き出すことに成功し、この世に再び明かりが戻ったという神話です。めでたしめでたし。
〇岩戸隠れは冬至だ。初日の出を拝むのはその名残かも
この岩戸隠れ神話の解釈としては、日食で地上が暗くなったことを表現しているのだという説が一般的なようです。
でも何かおかしい気がします。だって日食というはそれほど長い時間続くものではないのですからその間は恐れをなすでしょうけど、すぐにまた明るくなれば「? 今のは何だったんだろう?」という程度で済んでしまうと思うのです。特にものを忘れやすい気質の日本人の場合(今の時期、「忘年会」なんていう風習もありますよね)には、しばらくすればほとんど記憶のかなたに飛んで行ってしまうと思うのです。
それに、日食のきわめて短い時間の間にトラブルが次々に起こるとか、神々が集まって相談をするとか、いろいろな準備をして祭りを開催するとかは実質的にありえないはずです。暗くなるというのはもっと長い時間のはずです。
日食が起きる場所というのもかなり狭い範囲ですから、古事記に書かれるような大事件とはみなされない気がします。
私は、岩戸隠れとは秋から冬になって次第に日が短くなることを不安に感じて、冬至のころに太陽を元気づけたり、あるいは冬至後に日が長くなり始めたことを祝うイベントを行ったことに由来しているように思うのです。
それならば、世界各地の行事と整合性もあるし、日食とは違って毎年のことであって、古代人にとってはとても重要なことであるからこそ古事記にも記されたのだと考えるのです。
「そうに違いない、大発見だ!」と思ったけど、どうやら「岩戸隠れ=冬至」という説はすでに存在しているようです…
そもそも「初日の出を拝む」という風習自体がアマテラスをおびき出す祭りに由来しているのかもしれません。「眺める」ではなくて「拝む」というくらいですから太陽信仰の一形態であることは確かでしょう。
仏教は仏像に向かって拝むけど、アマテラスを最高神とする太陽信仰である神道が拝む対照は本来は太陽であるはずですし、それを最も熱心に(必死に?)祭祀するのは冬至のころであって、その重要なイベントは間接的・抽象的かもしれないけど古事記に記されていて当然だと考えます。それが岩戸隠れ伝説なのでは?
私は、天津神の住む高天原が茨城県鹿島・神栖地方であったのではないかという東実説を以前のブログで紹介しました。この時期、神道つまり太陽信仰の古代の神々・人々は鹿島灘に出てはるかかなた太平洋に昇る朝日に向かって祈ったり祝ったりしたのではないかなぁ。そして、水平線から太陽が昇ると海面に写る太陽を見てそれを「八咫鏡」と考えたということはないでしょうか。
また、神々が集まって相談をした河原というのは利根川のことか、あるいは「河原」というのは「水辺」という意味であって鹿島灘のことだったかも。
さらに、日が短い時期には東の朝日に向かって祈るだけでは足りないと心配になり、太陽がもっともっと高く登ってもらえるように、南天の太陽に近づけるイメージのある南九州高地で祭祀を行うべく「天孫降臨」として高千穂に進出した、ということではないでしょうか。
今回は、ほとんど想像だけで根拠の薄い話でした。(^^;
みなさんこんにちは。
師走、年の瀬ですね。明日は冬至、一年で一番日の短い日です。今日の東京の日の出は6時47分だそうです。
もう少しするとクリスマスがあって、さらにもう少しすると年明けになります。
「盆と暮れがいっしょにやってくる」ことはないけど、「クリスマスと暮れ」はいっしょにやってくるのです。
日の出がもっとも遅くなるのは1月上旬で6時51分(東京)だそうで、なかなか日が昇らない。少しだけ早起きすれば初日の出が見られるわけですが、初日の出を待っていると意外に遅いと感じたことはないでしょうか。太陽系の仕組みを知っている現代人は太陽が昇らないことはないと安心していられるわけですが、それでも時計を見ながら「まだかよ、本当に出てくるのか?」なんて冗談を言ったことはありませんか。
ところで、クリスマスも新年もこの時期ほぼ同時にやってくるのは偶然ではなくて、冬至を過ぎて日が長くなり始めることを祝う世界各地の風習から必然のことなのだという話を聞いたことがあります。
つまり、勢いをなくしつつあった太陽がふたたび活気をとりもどして生き返る時期であることから、「信仰対照の太陽が生まれる時期」が「キリストが生まれた日」に変化してクリスマスのイベントに発展し、さらに太陽の生まれ変わりとしての新たな年の初め、太陽暦の最初の日として選ばれるようになったということです。
電燈も暖房もない古代の人々にとっては、毎年のこととはいえ太陽がなかなか登らなくなって暗く寒くなるこの時期は不安で仕方なかったのではないでしょうか。太陽がちゃんと昇ってくるかどうかは切実な心配事だったかもしれません。
きっと、毎朝の日の出を見ては太陽が勢いを取り戻してくれるように真剣に祈ったことでしょう。そしてやっと冬至を過ぎて日が長くなり始めると、それはそれは安堵しただろうし嬉しくて、お祝いをするとともに太陽に感謝をささげたことと思います。
〇アマテラスの岩戸隠れ神話
アマテラスの岩戸隠れは古事記に書かれている日本神話の中でも一番有名なエピソードではないでしょうか。
一応簡単に紹介しますと、
高天原で乱暴をはたらいた弟のスサノオに恐れをなした姉のアマテラスは洞窟に隠れて入口を岩で塞いでしまい、この世が真っ暗になるとともにトラブルが次々に起こるようになりました。困った神々は河原に集まりオモイカネを議長役として相談し、盛大なお祭りをやってアマテラスを外におびき出すことにしました。こまごまとした準備の後にお祭りが始まりました。このお祭りで活躍したのがアマノウズメという女神でお色気たっぷりのダンスを披露して男神達がおおいに受けて盛り上がり、それにつられてアマテラスもついつい入口を塞いでいた岩を少し開けました。
少し開け放たれた隙間には八咫鏡が置かれており、鏡に映った自分の姿を見てアマテラスは自分と同じような高貴な神がいると錯覚して驚いてスキができます。そこでアメノタヂカラオという怪力の神がアマテラスの腕をつかんで外に引き出すことに成功し、この世に再び明かりが戻ったという神話です。めでたしめでたし。
〇岩戸隠れは冬至だ。初日の出を拝むのはその名残かも
この岩戸隠れ神話の解釈としては、日食で地上が暗くなったことを表現しているのだという説が一般的なようです。
でも何かおかしい気がします。だって日食というはそれほど長い時間続くものではないのですからその間は恐れをなすでしょうけど、すぐにまた明るくなれば「? 今のは何だったんだろう?」という程度で済んでしまうと思うのです。特にものを忘れやすい気質の日本人の場合(今の時期、「忘年会」なんていう風習もありますよね)には、しばらくすればほとんど記憶のかなたに飛んで行ってしまうと思うのです。
それに、日食のきわめて短い時間の間にトラブルが次々に起こるとか、神々が集まって相談をするとか、いろいろな準備をして祭りを開催するとかは実質的にありえないはずです。暗くなるというのはもっと長い時間のはずです。
日食が起きる場所というのもかなり狭い範囲ですから、古事記に書かれるような大事件とはみなされない気がします。
私は、岩戸隠れとは秋から冬になって次第に日が短くなることを不安に感じて、冬至のころに太陽を元気づけたり、あるいは冬至後に日が長くなり始めたことを祝うイベントを行ったことに由来しているように思うのです。
それならば、世界各地の行事と整合性もあるし、日食とは違って毎年のことであって、古代人にとってはとても重要なことであるからこそ古事記にも記されたのだと考えるのです。
「そうに違いない、大発見だ!」と思ったけど、どうやら「岩戸隠れ=冬至」という説はすでに存在しているようです…
そもそも「初日の出を拝む」という風習自体がアマテラスをおびき出す祭りに由来しているのかもしれません。「眺める」ではなくて「拝む」というくらいですから太陽信仰の一形態であることは確かでしょう。
仏教は仏像に向かって拝むけど、アマテラスを最高神とする太陽信仰である神道が拝む対照は本来は太陽であるはずですし、それを最も熱心に(必死に?)祭祀するのは冬至のころであって、その重要なイベントは間接的・抽象的かもしれないけど古事記に記されていて当然だと考えます。それが岩戸隠れ伝説なのでは?
私は、天津神の住む高天原が茨城県鹿島・神栖地方であったのではないかという東実説を以前のブログで紹介しました。この時期、神道つまり太陽信仰の古代の神々・人々は鹿島灘に出てはるかかなた太平洋に昇る朝日に向かって祈ったり祝ったりしたのではないかなぁ。そして、水平線から太陽が昇ると海面に写る太陽を見てそれを「八咫鏡」と考えたということはないでしょうか。
また、神々が集まって相談をした河原というのは利根川のことか、あるいは「河原」というのは「水辺」という意味であって鹿島灘のことだったかも。
さらに、日が短い時期には東の朝日に向かって祈るだけでは足りないと心配になり、太陽がもっともっと高く登ってもらえるように、南天の太陽に近づけるイメージのある南九州高地で祭祀を行うべく「天孫降臨」として高千穂に進出した、ということではないでしょうか。
今回は、ほとんど想像だけで根拠の薄い話でした。(^^;
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