
ご訪問ありがとうございます。

前回に太平洋戦争の話をしましたので今回もそれに関連した話を。
太平洋戦争の勃発した理由とかイデオロギー的な話はさておき日本はあの戦争にどうして負けたのでしょうか。「国力の違い」はもちろん、それ以外にもいくらでも挙げられそうですが、一つの理由として陸軍と海軍との反目、不毛な対抗意識、協力態勢のない勝手な行動があったのではないかと思います。それゆえ、合理的な作戦行動がとれなかったように感じられます。
陸軍と海軍は同じ日本軍という組織でありながら戦争と言う非常事態にあって協同歩調が求められるときに縦割り行政で全く別組織として行動していたのです。「統帥権」という明治憲法の欠陥のために軍部をまとめて取り仕切るべき者がいなかったのがその原因でしょうか。明治憲法は伊藤博文が実質的起草者で、それなりに良くできていたのでしょうけど「統帥権」だけは欠陥だったと思います。
「統帥権:天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」このわずか10文字の規定が陸軍と海軍に個別の暴走を許してしまいました。
陸軍と海軍は「統帥権」という制度で天皇の下、大本営という組織で統括されている建前でしたが、その中身は「陸軍部」と「海軍部」に完全に二分されていました。陸軍と海軍がいかに協力せず勝手に行動していたのか、いかに無駄に対抗していたのかいくつか書き出してみたいと思います。
1.陸軍部と海軍部に分かれていた大本営
上記の通り、日本軍を統合しているはずの大本営も実は陸軍部と海軍部に分かれていて作戦会議も別のようでしたし、情報もお互いに秘匿し合っていました。陸軍部と海軍部は建物も分かれていて、たしか市ヶ谷と六本木だったと思います。
2.海軍の戦果の発表に待ったをかける陸軍
開戦後間もない1942年1月11日、海軍の落下傘部隊はインドネシアのスラウェシ島への降下に成功します。当時は落下傘部隊は非常にめずらしく海軍はこれを国民に対して派手に発表しようとしますが、それを事前に知った陸軍は発表に待ったをかけます。陸軍が戦績で遅れをとっていると国民に思われたくなかったのです。
そして、陸軍は同2月14日に同じくインドネシアのスマトラ島のパレンバンに落下傘部隊の降下を成功させます。パレンバンは油田地帯であって、国民には後発の陸軍の活躍の方が目立つように見えました。海軍は面白くなかったでしょう。
3.ガダルカナル島を知らなかった陸軍
戦争の初期段階は日本は優勢でしたが、次第に劣勢に転移していきます。その潮目の一つとなったのがガダルカナル島争奪戦に敗れたことだったでしょう。海軍はガダルカナル島に南太平洋最前線の拠点となる極めて重要な航空基地を建設しましたが、1942年8月7日米軍の攻撃を受けて陸上戦が勃発します。日本と米国との初めての本格的陸上戦ですが、海軍には陸上戦を遂行する能力がないため困り果てて陸軍の応援を要請します。
このとき陸軍幹部はこの航空基地の存在はもちろん「ガダルカナル島」という島自体も知らず、海軍幹部の言う話がよく理解できなかったそうです。海軍はこの重要な航空基地の建設と存在を陸軍に全く明かしていなかったのです。
陸軍はガダルカナル島奪回に協力をしますが、当初米軍の実力を見くびっていて兵力を小出しにして甚大な損害を受けてしまいます。激戦の末、日本軍はガダルカナル島を放棄しました。
4.台湾沖航空戦の大誤報を陸軍に隠し通した海軍
これは酷い話なので少し詳しく。
戦争が長引き戦況が悪化することにより優秀なパイロットが戦死して数が減り、戦闘機も少なくなってきました。そこで、海軍は米国艦隊に夜間攻撃をしかけます。1944年10月12日の台湾沖航空戦です。少しでも敵に見つかりにくく、撃ち落とされにくいと考えたのでしょう。
その結果は、惨敗で残り少なくなっていた航空精鋭部隊はほぼ壊滅させられる一方、敵艦隊の損害は軽微でした。このころには米国はレーダーとVT信管(命中しなくても目標物近くで爆発して損害を与える)を実用化させて実戦投入していたのが効果を発揮したようです。
しかし、問題はさらにこの後のことで大本営では「敵の機動部隊をほぼ全滅させた」と発表してしまったのです。
なぜ、そんな正反対のでたらめ発表になったのかと言えば、夜間でしかも未熟な搭乗員には戦果確認が難しかった、内地に戦勝報告をしたいという前線の心理、報告を受けた本土海軍上層部も疑問をいだきながらも10月の予算配分の時期であり陸軍を牽制したかった、などの多くの理由が重なったと言われてます。
陸軍指揮官でマレーの虎とも呼ばれた逸話の多い山下奉文大将は、フィリピンでこの発表を聞きますが信じなく、まわりの人に「だって、(敵空母機が)飛んでるじゃないか」と言ったそうです。他にも不自然な大勝利の戦果に疑問を呈する人たちもいましたが、それらの声は無視されました。
この大本営の発表の影響は大きく、天皇からは勅語が発せられ、国民はちょうちん行列を催し、ヒトラーからは祝電が届き、米国内の株は暴落します。
しかししかし、本当の大問題はさらにこの後でした。南方軍総司令官の寺内寿一大将はこの大誤報を信じきってしまい、この機をのがさず陸軍を大反転攻勢に打って出させることを決断しました。準備不足にもかかわらず8万4千人の兵を繰り出しますが、健在の米軍にたたかれて実に95%の8万人が戦死してしまいます。無謀と言われた悪名高いインパール作戦の戦死90%を上回る壊滅的被害でした。
一方の海軍は台湾沖航空戦の後すぐに発表した戦果が全くの誤報だったと気づきますが、国民にも陸軍にも知らせることはありませんでした。敵を壊滅させた大戦果のはずが全くの大嘘だったとは、それこそ国民、陸軍そして天皇から大バッシングを受けるでしょうからメンツがあって言い出せなかったのでしょう。
海軍幹部にとっては陸軍兵士8万人の命よりも自分たちのメンツが大事で、その結果がどうなろうとその場をしのぐことができれば良かったのです。そしてダンマリをきめこんでしまいました。
5.ミッドウェー海戦の惨敗を知らなかった東条英機
東条英機は陸軍大将であり、陸軍大臣であり、参謀総長であり、そして開戦直前から約2年半の間総理大臣を務めていました。
後世の私たちが戦時中の歴史を学ぶと、日本は敗戦色が濃くなってきても東条英機が頑迷に戦争を継続させていたように映ります。それはある意味正しいのでしょうけど、実は陸軍派の東条は海軍がどれほど負けているのか実情を知らなかったのかもしれません。それで判断を誤り続けた可能性もあると思います。
ミッドウェー海戦は日本が虎の子の大型空母4隻をすべて沈没させられた大敗戦でしたが、東条は少なくともこの海戦の大敗を知りませんでした。彼がミッドウェー海戦がどのようなものだったのかを知ったのは、戦後に捕えられて巣鴨拘置所に入ってからだったと言います。ミッドウェー海戦について真実を聞いた彼は呆然としていたそうです。
冒頭の画像はミッドウェー海戦について報じた当時の新聞です。なんだか大勝利のように錯覚してしまいますね。
このように見直してみると、戦争中も我が国は「縦割り行政」の弊害を蒙っていたことがわかりますね。
陸軍にとっては中国軍よりも海軍に負けないことが大事で、海軍にとっては米軍よりも陸軍に負けないことを優先していたのではないか、とさえ思えてしまいます。
縦割り行政もひどいのですが、それとともに日本人の根本的気質にも問題があったのではないでしょうか。
これを言うと反発を受けるかもしれませんが、日本人はどうも本来的本質の目的や課題をないがしろにして、その場だけを一時的に繕うという傾向があるように見えてしかたないのです。そして本来の目的の達成が不十分になるとも、いまその時点でたまたま身の回りにいる人たちだけに対して体裁よくあるいは格好よく振舞おうとし、又は、いまその時点でたまたま身の回りにいる人たちだけに対して陳腐で無駄な対抗意識を発揮させているのではないでしょうか。近視眼的で時間的または空間的にはなれた箇所に与える影響や結果をあまり考慮していないようです。
それは過去のエリート軍人だけでなく現代人も全く同じであるように感じます。あえて例示はしませんが私は実生活でそういう例をたくさん見聞きしてきました。
「ええ恰好シイ」で、本質よりも体裁や安っぽい見栄とメンツを優先する人が多くないでしょうか。
日本が戦争に負けた理由の一つなのかもしれない、と感じてしまいます。
反感を覚える方もいらっしゃるかもしれませんが、あくまで私感です。

前回に太平洋戦争の話をしましたので今回もそれに関連した話を。
太平洋戦争の勃発した理由とかイデオロギー的な話はさておき日本はあの戦争にどうして負けたのでしょうか。「国力の違い」はもちろん、それ以外にもいくらでも挙げられそうですが、一つの理由として陸軍と海軍との反目、不毛な対抗意識、協力態勢のない勝手な行動があったのではないかと思います。それゆえ、合理的な作戦行動がとれなかったように感じられます。
陸軍と海軍は同じ日本軍という組織でありながら戦争と言う非常事態にあって協同歩調が求められるときに縦割り行政で全く別組織として行動していたのです。「統帥権」という明治憲法の欠陥のために軍部をまとめて取り仕切るべき者がいなかったのがその原因でしょうか。明治憲法は伊藤博文が実質的起草者で、それなりに良くできていたのでしょうけど「統帥権」だけは欠陥だったと思います。
「統帥権:天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」このわずか10文字の規定が陸軍と海軍に個別の暴走を許してしまいました。
陸軍と海軍は「統帥権」という制度で天皇の下、大本営という組織で統括されている建前でしたが、その中身は「陸軍部」と「海軍部」に完全に二分されていました。陸軍と海軍がいかに協力せず勝手に行動していたのか、いかに無駄に対抗していたのかいくつか書き出してみたいと思います。
1.陸軍部と海軍部に分かれていた大本営
上記の通り、日本軍を統合しているはずの大本営も実は陸軍部と海軍部に分かれていて作戦会議も別のようでしたし、情報もお互いに秘匿し合っていました。陸軍部と海軍部は建物も分かれていて、たしか市ヶ谷と六本木だったと思います。
2.海軍の戦果の発表に待ったをかける陸軍
開戦後間もない1942年1月11日、海軍の落下傘部隊はインドネシアのスラウェシ島への降下に成功します。当時は落下傘部隊は非常にめずらしく海軍はこれを国民に対して派手に発表しようとしますが、それを事前に知った陸軍は発表に待ったをかけます。陸軍が戦績で遅れをとっていると国民に思われたくなかったのです。
そして、陸軍は同2月14日に同じくインドネシアのスマトラ島のパレンバンに落下傘部隊の降下を成功させます。パレンバンは油田地帯であって、国民には後発の陸軍の活躍の方が目立つように見えました。海軍は面白くなかったでしょう。
3.ガダルカナル島を知らなかった陸軍
戦争の初期段階は日本は優勢でしたが、次第に劣勢に転移していきます。その潮目の一つとなったのがガダルカナル島争奪戦に敗れたことだったでしょう。海軍はガダルカナル島に南太平洋最前線の拠点となる極めて重要な航空基地を建設しましたが、1942年8月7日米軍の攻撃を受けて陸上戦が勃発します。日本と米国との初めての本格的陸上戦ですが、海軍には陸上戦を遂行する能力がないため困り果てて陸軍の応援を要請します。
このとき陸軍幹部はこの航空基地の存在はもちろん「ガダルカナル島」という島自体も知らず、海軍幹部の言う話がよく理解できなかったそうです。海軍はこの重要な航空基地の建設と存在を陸軍に全く明かしていなかったのです。
陸軍はガダルカナル島奪回に協力をしますが、当初米軍の実力を見くびっていて兵力を小出しにして甚大な損害を受けてしまいます。激戦の末、日本軍はガダルカナル島を放棄しました。
4.台湾沖航空戦の大誤報を陸軍に隠し通した海軍
これは酷い話なので少し詳しく。
戦争が長引き戦況が悪化することにより優秀なパイロットが戦死して数が減り、戦闘機も少なくなってきました。そこで、海軍は米国艦隊に夜間攻撃をしかけます。1944年10月12日の台湾沖航空戦です。少しでも敵に見つかりにくく、撃ち落とされにくいと考えたのでしょう。
その結果は、惨敗で残り少なくなっていた航空精鋭部隊はほぼ壊滅させられる一方、敵艦隊の損害は軽微でした。このころには米国はレーダーとVT信管(命中しなくても目標物近くで爆発して損害を与える)を実用化させて実戦投入していたのが効果を発揮したようです。
しかし、問題はさらにこの後のことで大本営では「敵の機動部隊をほぼ全滅させた」と発表してしまったのです。
なぜ、そんな正反対のでたらめ発表になったのかと言えば、夜間でしかも未熟な搭乗員には戦果確認が難しかった、内地に戦勝報告をしたいという前線の心理、報告を受けた本土海軍上層部も疑問をいだきながらも10月の予算配分の時期であり陸軍を牽制したかった、などの多くの理由が重なったと言われてます。
陸軍指揮官でマレーの虎とも呼ばれた逸話の多い山下奉文大将は、フィリピンでこの発表を聞きますが信じなく、まわりの人に「だって、(敵空母機が)飛んでるじゃないか」と言ったそうです。他にも不自然な大勝利の戦果に疑問を呈する人たちもいましたが、それらの声は無視されました。
この大本営の発表の影響は大きく、天皇からは勅語が発せられ、国民はちょうちん行列を催し、ヒトラーからは祝電が届き、米国内の株は暴落します。
しかししかし、本当の大問題はさらにこの後でした。南方軍総司令官の寺内寿一大将はこの大誤報を信じきってしまい、この機をのがさず陸軍を大反転攻勢に打って出させることを決断しました。準備不足にもかかわらず8万4千人の兵を繰り出しますが、健在の米軍にたたかれて実に95%の8万人が戦死してしまいます。無謀と言われた悪名高いインパール作戦の戦死90%を上回る壊滅的被害でした。
一方の海軍は台湾沖航空戦の後すぐに発表した戦果が全くの誤報だったと気づきますが、国民にも陸軍にも知らせることはありませんでした。敵を壊滅させた大戦果のはずが全くの大嘘だったとは、それこそ国民、陸軍そして天皇から大バッシングを受けるでしょうからメンツがあって言い出せなかったのでしょう。
海軍幹部にとっては陸軍兵士8万人の命よりも自分たちのメンツが大事で、その結果がどうなろうとその場をしのぐことができれば良かったのです。そしてダンマリをきめこんでしまいました。
5.ミッドウェー海戦の惨敗を知らなかった東条英機
東条英機は陸軍大将であり、陸軍大臣であり、参謀総長であり、そして開戦直前から約2年半の間総理大臣を務めていました。
後世の私たちが戦時中の歴史を学ぶと、日本は敗戦色が濃くなってきても東条英機が頑迷に戦争を継続させていたように映ります。それはある意味正しいのでしょうけど、実は陸軍派の東条は海軍がどれほど負けているのか実情を知らなかったのかもしれません。それで判断を誤り続けた可能性もあると思います。
ミッドウェー海戦は日本が虎の子の大型空母4隻をすべて沈没させられた大敗戦でしたが、東条は少なくともこの海戦の大敗を知りませんでした。彼がミッドウェー海戦がどのようなものだったのかを知ったのは、戦後に捕えられて巣鴨拘置所に入ってからだったと言います。ミッドウェー海戦について真実を聞いた彼は呆然としていたそうです。
冒頭の画像はミッドウェー海戦について報じた当時の新聞です。なんだか大勝利のように錯覚してしまいますね。
このように見直してみると、戦争中も我が国は「縦割り行政」の弊害を蒙っていたことがわかりますね。
陸軍にとっては中国軍よりも海軍に負けないことが大事で、海軍にとっては米軍よりも陸軍に負けないことを優先していたのではないか、とさえ思えてしまいます。
縦割り行政もひどいのですが、それとともに日本人の根本的気質にも問題があったのではないでしょうか。
これを言うと反発を受けるかもしれませんが、日本人はどうも本来的本質の目的や課題をないがしろにして、その場だけを一時的に繕うという傾向があるように見えてしかたないのです。そして本来の目的の達成が不十分になるとも、いまその時点でたまたま身の回りにいる人たちだけに対して体裁よくあるいは格好よく振舞おうとし、又は、いまその時点でたまたま身の回りにいる人たちだけに対して陳腐で無駄な対抗意識を発揮させているのではないでしょうか。近視眼的で時間的または空間的にはなれた箇所に与える影響や結果をあまり考慮していないようです。
それは過去のエリート軍人だけでなく現代人も全く同じであるように感じます。あえて例示はしませんが私は実生活でそういう例をたくさん見聞きしてきました。
「ええ恰好シイ」で、本質よりも体裁や安っぽい見栄とメンツを優先する人が多くないでしょうか。
日本が戦争に負けた理由の一つなのかもしれない、と感じてしまいます。
反感を覚える方もいらっしゃるかもしれませんが、あくまで私感です。
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