fc2ブログ

ゆっくり歩こう

松平秀康と保科正之の不思議な共通点<1>

松平秀康と保科正之の不思議な共通点<1>
ご訪問ありがとうございます。
松平秀康・保科正之

徳川家血筋で名君でありともに雄藩の藩祖にもなった松平秀康と保科正之ですが、この叔父―甥の関係の両名ともご存知の方は少ないのではないでしょうか。
名君とは言っても二人とも将軍を支える裏方的な立場だったので残念ながら知名度は低いようですね。
実はこの目立たない二人、不思議なほど共通点が多いということに気づきまして、他に指摘している方もいないようなのでご紹介させてもらいます。なんだか生まれ変わりなんじゃないかと思われるほど似ていて面白いのです。
まずは二人を簡単にご紹介いたします。

〔1〕松平秀康(1574-1607)
別名を羽柴秀康または結城秀康。徳川家の初代将軍家康の次男。
異母兄弟に切腹させられた長男で有能だった信康や、第二代将軍となった三男の秀忠など。
母親は女中で側室となったお万で、信康を生んだ正室は築山御前。家康より年上の築山御前は今川家の娘であり、家康は政略的に結婚させられた。
良家から嫁いできた年上の築山御前は気位が高くて自分以外の側室を置くことを許さず、家康は恐妻家となる。家康は築山御前の目を盗んで女中のお万に手を出して懐妊させるも、城内では築山御前の目があるため城外に出て秘密裡に秀康を出産する。(双子説もあり)
秀康はその後も父家康との目通りはなかなかかなわず、初めて父に会えたのは3歳になってからだった。父に目通りがかなったのは兄信康の計らいであったらしい。家康のこのような冷遇は、秀康が当時嫌われていた双子による出生だったという説もある。
長男の信康は有能で家督を継ぐ立場であったが、実母の築山御前は滅亡した今川の出自であり、後ろだてを失ったことから武田方に接近したらしく、徳川と同盟していた織田信長から謀反を疑われる。そして築山御前とその実子の信康は切腹させられる。
これにより、次男の秀康は徳川家の世継ぎとなるはずであったが、豊臣方に実質的人質として養子に出される。ここで元服して秀吉と家康から一文字ずつ受けて「羽柴秀康」と命名される。
豊臣家と徳川家の関係が安定すると、家康が三河から江戸に国替えになるのを機に秀康は北関東の名家の結城家に養子に出されて藩主となり「結城秀康」と名のる。結城は10万石の規模ながら江戸から北方70kmの場所で東北地方との交通の要衝の地だった。
秀康はその立場から豊臣家と徳川家との橋渡し的役割を担い、人格的にも評価が高かった。
関ヶ原の戦いでは、東北地方の牽制を重視する家康の判断により、秀康は結城城に留まって上杉景勝の進出をおさえた。その結果、合戦に直接参加していないにも関わらず越前藩67万石に大幅に加増された。これは、関ヶ原後の論功行賞で最大の加増だった。
秀康の代表的事業のひとつに越前城下に水をひく芝原用水の開削が挙げられる。
秀康は越前松平家の藩祖となり、御三家や親藩などの枠組みを超えた「制外の家」としての特別扱いを受けた。
また、越前藩は地理的に加賀藩(100万石)の監視・牽制役でもあった。
秀康は「松平」姓を許されたが、養家への恩義から「結城」姓も使っていたとも言われる。
病気(梅毒)により34歳で亡くなるが、越前松平家は徳川親藩として幕末まで続き、明治維新では会津藩などとともに佐幕派の中心となり、藩主の松平春嶽は養子ながら幕府存続ために尽力した。
明治維新で100万石の加賀藩がほとんど目立った活躍ができなかったのは隣接する越前藩の存在があったためかもしれない。

〔2〕保科正之(1611-1673)
徳川家の第二代将軍秀忠の三男。
異母兄弟に第三代将軍となった長男の家光や、切腹させられた次男で有能だった忠長がいる。
母親は女中だったお静で、家光と忠長を生んだ正室はお江。秀忠より年上のお江は信長の姪でありすでに二度の婚歴があったが、秀忠は秀吉の命令により政略的に結婚させられた。
良家から嫁いできた年上のお江は気位が高くて自分以外の側室を置くことを許さず、秀忠は恐妻家となる。
秀忠はお江の目を盗んで女中のお静に手を出して懐妊させるも、城内ではお江の目があるため城外に出て秘密裡に正之を出産する。
正之はその後も父秀忠との目通りはなかなかかなわず、結局、終生父に直接会うことはできなかった。
正之は長く庶子の扱いであり、信州高遠藩の保科家に養子に出されて藩主となり「保科正之」と命名される。高遠藩は江戸から西方150kmの場所。
有能で一時は家督を継ぐとも目されていた次男の忠長は、駿府を収めていて駿河大納言と呼ばれていたが、将軍となっていた家光からいろいろの嫌疑をかけられて甲府への蟄居を命ぜられ、その後切腹させられている。
これにより、家光に兄弟は亡くなったと思われたが保科正之が異母弟であることが分かり、家光はこの僅実な弟正之を重用するようになる。正之は出羽山形藩20万石を拝領し、さらに会津藩に移封される。会津藩は公称23万石とされたが、それは25万石ほどの御三家との序列の関係上であり、実質は28万石だった。
正之は老中などの役職はなかったが、家光を補佐して実質的な副将軍となる。
正之はその立場から家光を補佐し、さらに家光亡き後は幼少の第四代将軍家綱の後見人として幕政を執り行った。正之の存在がなければ11歳で将軍職についた家綱の幕府の基盤は揺らいだかもしれない。
天草の乱では、東北地方の牽制を重視する家康以来の伝統的判断により、正之は江戸・会津に留まって東北諸藩の進出をおさえた。
正之の代表的事業のひとつに江戸に水をひく玉川上水の開削が挙げられる。
正之は会津松平家の藩祖となり、御三家に次ぐ「第四の家格」としての扱いを受けた。
正之は「松平」姓を許されたが、養家への恩義から「保科」姓を名のり続けた。
晩年は病気(白内障)により視力を失うが62歳まで生きる。
会津松平家は徳川親藩として幕末まで続き、明治維新では越前藩などとともに佐幕派の中心となり、藩主の松平容保は養子ながら幕府存続ために尽力した。



歴史上で同様に親族がトップの人間を裏から強くサポートしていた例としては、豊臣秀吉の弟の秀長、西郷隆盛の弟の従道と従兄弟の大山巌あたりが挙げらるでしょうか。

スポンサーサイト



PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する