司馬「関ヶ原」を読んで<8>
== 東征はタブー ==
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前回は古事記におけるヤマトタケルの話に触れました。
古事記において、ヤマトタケルよりも古い時代に神武天皇の東征の物語が記録されています。
それによれば、日の昇る方向である東へ向かって兵を進めることは神の怒りを買ってしまうためタブーであるということが示唆されています。神武天皇も大和へ入るのに瀬戸内海方面から一度和歌山方面へ迂回してから北上しています。
ヤマトタケルは東征した帰路に伊吹山で災難に遭って亡くなりました。
西軍の石田三成は東軍となる家康に挑んで負けました。
そして、時代がはるか下った昭和には、日本は東の米国と戦って大敗を喫しました。
やはり日本人にとって東征は禁忌なのでしょうか。

司馬「関ヶ原」を読んで<7>
== 石田三成とヤマトタケル ==
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司馬作品で「関ヶ原」の石田三成と同じく「歳月」の江藤新平が似ている、というか作者がそのように描いているという話題をご紹介しました。
今回「関ヶ原」を再読して気づいたのですが、石田三成は古事記における英雄ヤマトタケルにもかなり似ているようです。
まず三成についてですが、①時の最高権力者である豊臣政権の秀頼の実質的代行として西軍を指揮し、②関東を拠点とする賊である家康を討とうとします。当初、③岐阜の大垣城にいた三成は世の茶人が羨望する名器の茶器である④「芳野」を陣中見舞いに来てくれた親友の商人に譲り、関ヶ原に移動します。そして関ヶ原が合戦場所となり、三成は西北側の⑤伊吹山のふもとに陣取ります。決戦前夜、⑥雨中を各陣所を自ら見回った三成は体調をくずし腹痛と下痢にさいなまれます。早朝から開戦しますが、⑦期待していた大軍の毛利勢や精強の島津勢は働かず、小早川秀秋には裏切られて敗北します。
三成は槍刀の傷は受けてなくとも体調がすぐれず、⑧悲惨な状態で伊吹山を脱出し、豊臣方本拠地である⑨畿内(大阪)を目指しますが、やがて徳川方の田中吉政に捕縛されます。三成は丁重に遇した吉政に④名刀の切刃貞宗を譲ります。三成はその後⑩斬首されました。
一方のヤマトタケルですが、①時の最高権力者である景行天皇の代行として②関東地方の賊を征討しに行きます。その東征の帰路、③尾張の国(尾張国一宮または尾張国府? いずれも大垣城から18kmほど)に寄り、④三種の神器である聖剣の草薙の剣を愛人に託し、⑤伊吹山の荒ぶる神を鎮めに行きますが、⑥雹に見舞われ体力をうしない、⑦草薙の剣を使わずに戦いに挑み、荒ぶる神の怒りを買って負けてしまいます。⑧瀕死のヤマトタケルは⑨畿内(奈良)帰ろうとしますが途中で⑩力尽きて亡くなってしまいます。
どうでしょうか、面白いですよね。
三成は教養があったようですが、この時代の教養としての歴史は中国史であって、日本史が学ばれるようになったのは江戸時代に本居宣長らが「国学」を提唱してからのことですから、この桃山時代には古事記・日本書紀は一般には知られていなかったはずで、ヤマトタケルの話も伊吹山が聖なる山であることも分かっていなかったかもしれません。その聖なる山を戦場に選んで布陣してしまい、ヤマトタケルと同様に荒ぶる神の怒りを買ってしまったのかもしれません。
石田三成もヤマトタケルも日本史と日本神話における超有名人物ですが、意外にも検索してもその類似性を指摘している人はいないようでした。


司馬「関ヶ原」を読んで<6>
== 関ヶ原の戦いは防げなかったか ==
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関ヶ原の戦いはなぜ防げなかったのでしょうか。そして、三成はなぜ家康に負けてしまったのでしょうか。
「そもそも無謀な戦いであって負けるべくして負けた」という考え方もあるようですが、改めてこの戦さを俯瞰してみるとそうでもなくて三成は結構うまくやっていて勝敗のゆくえは紙一重の差だったような気もします。
特に、豊臣方で家康に対抗しうる前田利家、豊臣秀長(秀吉の弟)そして秀吉自身が早く亡くなってしまっていたのは痛手でした。
秀吉のあとに残された秀頼がもっと早く生まれていて成長していたら事態は異なっていたでしょうし、さらには家康がもっと早く亡くなっていれば江戸幕府は開かれなかったでしょう。実際、豊臣方は家康が亡くなるまでの辛抱だと考えていたふしはあります。
関ヶ原でも毛利、島津、長曾我部がもっと働いていたら、小早川が裏切らなかったら、あるいは北の上杉勢との連携がうまくいけば西軍は勝っていたでしょう。
三成は近江19万石の身上しかなく、家康の250万石に対抗しうるのは無謀でしたがせめて100万石ほども持っていれば西軍諸将のまとめ役としてもっと指導力を発揮できたことでしょう。そして、実際に三成は秀吉の在世時に九州で100万石をもらえるはずだったのですが、秀吉のそばで働きたいとしてこれを断ってしまっていたのでした。秀吉にしてみれば自分の死後に100万石の三成に家康と対抗しうる存在になってほしいと思っていたかもしれません。
東軍では豊臣恩顧の福島正則が率先して西軍と戦い、他の豊臣家家臣の武将たちも自らの意志というよりは正則に引きずられて東軍に参加してしまっていました。
そして、正則はただ単に三成との不仲という単純すぎる理由で西軍と猛烈に戦ったのでした。単純苛烈な異常性質です。三成が正則との仲をもう少しうまくまとめていれば、または正則の性格がもう少しだけ穏やかで協調性があったら、正則はじめ豊臣家臣団は西軍に入っていて東軍はずいぶんと劣勢だったでしょう。
そして、関ヶ原の戦いは実は豊臣家における側室淀殿派(近江派)と正室北政所(ねね)派(尾張派)との代理戦争だった側面があります。女のいがみ合いは恐ろしいですね。北政所にしてみれば豊臣家は秀吉と自分が二人で苦労して築き上げてきたもので、それを淀殿に横取りされてしまうのは耐えられなかったのかもしれません。
秀吉がもう少しうまくこの二人の仲を考慮して派閥を解消させていれば関ヶ原の戦いもなかったかもしれません。
つまるところ、三成は「持っていなかった」、ということでしょうか。全てが裏目にでてしまっていたのでしょう。それが時代の流れというものだったのかもしれません。
それから350年後、日本は第二次大戦で米国と戦争を開始します。強大な国力をもつ米国はあたかも家康のようでした。
このときも開戦を防ぐ手段や機会はなんどとなくありましたが、そのすべてが機能せずに結局悲惨な戦争に突き進んでしまったのです。
何か大きくて不幸な時代の潮流というものがあって、運命的にくつがえすことができなかったのでしょうか。


司馬「関ヶ原」を読んで<5>
== 関ヶ原と幕末討幕運動 ==
ご訪問ありがとうございます。
多少日本史に素養のある方ならば、幕末討幕運動と明治維新を中心的になしとげた薩摩、長州、土佐の各藩はその昔の関ヶ原の戦いで敗者となった側で、江戸時代の260年間臥薪嘗胆耐えて黒船来襲で幕府の力が弱ったときに一期にため込んでいたエネルギーを爆発させて幕府を転覆させ長年の雪辱を果たした、と言われていることはご存知でしょう。
私もそのように考えていました。
しかし、今回改めて司馬の「関ヶ原」を読み直してみると、なんかちょっと違うような違和感を感じたので書き留めておきたいと思います。
というのも、上記した薩摩、長州、土佐の各藩が明治維新の立役者となったことは明らかですが、関ヶ原の戦いではどうだったのかということです。
この三藩は敗者側の西軍に属してはいましたが、ほとんど活躍していなかったのですね。もっと言えば、これらのうちいずれかの一藩か二藩でも東軍と普通に戦っていれば西軍は負けなかった公算が強いと思います。
順に見ていきましょう。
〔長州・毛利軍の場合〕
毛利軍は西軍最大の勢力でしたからこの活躍次第で戦況は大きく変わります。
毛利は良く知られているように「三本の矢(サンフレッチェ)」と言われ、毛利家を吉川家・小早川家の両家で支える三家体制でした。そして外交に関しては豊臣びいきの安国寺恵瓊が取り仕切っています。
小早川家は秀吉の正室の甥の秀秋を養子として迎え入れてしまったので毛利とはちょっと距離ができてしまいましたが、吉川家は継続的に毛利家を補佐していました。
毛利は凡庸な当主である輝元が大阪城から動かず、関ヶ原の実戦部隊は従兄弟の毛利秀元が受け持つが、実際上の指揮権は吉川広家がとりました。そして、広家は不仲の安国寺に対する反発もあって毛利軍を山に登らせてしまいそのまま全く動かすことなく西軍を見殺しにしました。
さらに、小早川家にあっては東軍に寝返って、それまで善戦していた西軍に襲い掛かり勝敗の帰趨をひっくり返してしました。
「三本の矢」といわれる毛利・吉川・小早川の行動こそが西軍敗退の一大敗因をなしたのです。
〔薩摩・島津軍の場合〕
島津軍は遠国ということもあって千数百だけの軍勢しか連れてきませんでしたが、朝鮮出兵時でも大きな戦功をあげたように島津兵は精鋭であり、その働き次第では大きな戦力になりうるはずでした。
しかし、島津は当初は東軍に味方するつもりだったのがうまくいかず、中立することもできずに流れによって西軍に組み込まれてしまいます。
それでも、男気のある薩摩隼人はいざ戦さとなれば存分の働きをするはずでした。
ところが、人との接し方の下手な石田三成は戦の直前に島津入道の機嫌を損ねてしまいます。結局、怒った島津は西軍が完全に敗北するまで全く戦わず静観し、むしろ自陣に逃げ込んでくる西軍(宇喜多隊)に銃撃をあびせて追い払うという信じがたい行動までします。
いくら、三成の態度が悪くて気分を害したからといって、それを理由に天下分け目の決戦という状況で仕事を放棄するというのは大人の態度ではないと思いますし、逆に友軍を追い払ってしまうというのは人間としてどうなのでしょうか。
関ヶ原後に薩摩は逃亡中だった宇喜多秀家を一時的に匿いますが、それはまた別の話でしょう。
〔土佐・長曾我部軍の場合〕
四国南部の長曾我部は中央の情勢と外交に疎く東軍と西軍のどちらに味方するか迷い、一度は家康方につこうとしますがうまくいかずに結局西軍に組み込まれます。
一度は四国を平定した長曾我部ですからその力は強大で、西軍のために尽力しようと決意します。
しかしながら毛利軍のすぐ近くに布陣することになった長曾我部は毛利が動かないためにその動向が気になり、毛利側の吉川広家からも西軍に味方しないようにと示唆され、逆に毛利から背後を突かれる懸念から立ちすくんでしまいます。
結局、長曾我部も関ヶ原まで行ったものの何もしないうちに敗戦となりただ逃げ帰るだけとなりました。
また、毛利や島津とは違って懲罰も厳しくて土佐全領を召し上げられ、長曾我部家は土佐から追い出されて謹慎処分となりました。
このように長州、薩摩、土佐の各藩は関ヶ原の戦いでは何の仕事もせず、むしろ西軍の足を引っ張るだけの存在でした。そこにいないほうがよほど西軍のためになったでしょう。
土佐の長曾我部には少し同情もありますが、毛利と島津には許しがたい気持ちがします。
西軍で奮迅の働きをみせたのは石田軍、大谷軍、宇喜多軍、小西軍と、関ヶ原からは遠く離れていましたが信州の真田軍でしょう。
繰り返しますが長州、薩摩、土佐は関ヶ原で何もしていません。ただ戦さ見物をしていただけです。毛利の支族の小早川にいたっては東軍に寝返りました。それ以外の毛利、薩摩、土佐も間接的に東軍に寄与していたのです。
ですから、260年後の幕末に関ヶ原の雪辱を果たしたというのは全く筋違いの話と言わざるをえませんし、敗者の美学を装うべきではありませんでした。明治維新後の薩長出身者の専横ぶりも見苦しいものがありました。
もし本当に長い年月を経て関ヶ原の借りを返したと言うのなら、薩長独占の政府を樹立して甘い汁をすするのではなく、豊臣家や石田、大谷、宇喜多、小西らの子孫や遠縁を探し出して、最低限な形式だけでも迎え入れるべきだったでしょうが、そのような形跡はありません。
薩摩、長州、土佐が江戸時代にずっと関ヶ原の雪辱に燃えていてエネルギーをため込んでいたというのは事実かもしれませんが、関ヶ原では自分たちがサボタージュしたせいで西軍が負けてしまったのに、それを省みることもなくちょっと自己中心的わがままな考えだったような気がします。

司馬「関ヶ原」を読んで<4>
== 柿をめぐって ==
ご訪問ありがとうございます。
司馬作品「関ヶ原」は石田三成が主人公で、それに対抗するのが悪役の徳川家康でして、
両者の人物比較に読みごたえあります。
ちょっと面白い対比しうる二節がありました。
★家康の場合
三成が大垣城にいるとき、家康は江戸から戦場となる尾張方面へ移動中だった。途中、駕籠に乗っていた家康にひとりの僧がやってきて大きな柿を献上した。それに対して家康は、
「はや、大垣(柿)が手に入った」
と珍しく冗談を言い、駕籠のなかからその大柿をころがし、
「それ、大垣ぞ。奪いとれ」
と駕籠わきの小姓たちにたわむれた。
★三成の場合
捕えられた三成は刑場の六条河原へ檻に入れられて護送されていた。途中、のどがかわいて
「湯はないか」
と、護送役の獄吏に声をかけたが湯はなかった。
「しかし、干柿ならある。かわりにこれを食されよ」と三成のいる檻の中に投げ入れた。
この無礼に三成は沈黙し、やがて、
「柿は、痰の毒だ」
と、ひとことするどくいった。そのとおり柿は古来痰の毒とされている。
しかしいまから刑場に向かう人間が、痰の養生をしても意味がない。そういって、獄吏は大声であざわらった。
「下郎っ」
と、三成はいった。
「大丈夫たる者が、義のため老族を討とうとした。しかし事志とちがい、檻の中にあるが一世の事は小智ではわからぬ。いまのいま、どのような事態がおこるか、天のみが知るであろう。さればこそ眼前にひかえているとはいえ、生を養い、毒を厭うのである」
と、一語一語、ことさらにさわやかにして言った。これには獄吏も沈黙し、群集も一時息をひそめるように押しだまった。
このあと、六条河原で斬られた。
結局、家康も三成も柿を食べませんでした。
同じ移動中でも家康は駕籠で天下取りの途上、三成は檻で死の直前という状況があまりに違いすぎるので単純な比較はできないのですが、それでも「差し入れられた柿を食べなかった」という基本的には同じ行動ながらほとんど正反対の反応を示したというのは興味深く、両者の性格が如実に表れた出来事でした。